自分を磨く
今回も自戒の思いをこめてこちらに記録しておきます。
私は人に対して、優しい言葉をかけられる人でありたいけれど、自分自身は優しい言葉だけに寄っていく、受け取っていく人にはなりたくない。
もちろん優しい言葉に沢山支えられてきたのは言うまでもない。
しかし私は、優しい言葉だけで今日までこられたのではない。
例えば、今にも命が危ない人を見て、ただ穏やかな言葉をかけるだろうか。
"危ない!こら!行くな!生きろ!辞めろ!"こんな風に強い言葉でもって、助けようとするだろう。
厳しい言葉はそれに似ている。
もちろん全てがそうではない。
私の意味するこれは、私をよく知っていてくれて、私が信頼できたり尊敬できるような方からの、まごころからほとばしったもののことである。
だから、むやみに傷つけようとしたり、ただの上から目線の言葉は容赦なくかわさせてもらう。すぐに忘却のかなたへと葬らせていただく。
私が、そこを見極めるのに見つめていることは、"まごころ"がそこにあるかどうかということ。
(私は良くも悪くも深掘り人間なので、そこは見えてきてしまうため、しっかり区別している。
※申し訳ないけれど、noteやネット上での、私への反論を受け付けるという意味ではない。この話はあくまでも日常生活の話である。その場合はそっとこのページを閉じていただきますようにお願いします。noteが優しい世界であることに心より感謝しています。)
聞いたところによると、芸人さんが若々しいのは、いつまでも怒られたり、失敗したりする環境の中に、常にあるかららしい。
自分のことを振り返っていく状況を持つ人は、いつも自分と対話して自分を磨いて、輝きを放つのかもしれない。
自分で自分を認めてあげる。
ありのままを見つめる。
それは、自分の良さもできなさも同等に、冷静に俯瞰で知っていくこと。
自分が特別、優れているのでもなければ、劣っているのでもない。
もともとが、一人一人が、他にないきらめきを最初から持っている。
それをもっと活かしていくのが生きること。
自分の長所はもっと活かせるように、短所は少しでも、少しずつでも小さくしていけるように。
そのためには、優しい言葉だけじゃ、私は変われない。
私は同じ場所に留まっていたくない。
私は自分を変えていきたい。
(私の言っていることは矛盾しているように受け取られるかもしれない。
私はこの世界はパラドックスだと思っているので、それは否定しない。
でも、例えば陰と陽、光と影、裏と表、そのどちらかが正しいとか生かされる世界ではなくて、その対照的なものが全て生かされる世界と考える。抽象的で何言っているかわからなくて申し訳ない。)
最近、ドラマ「不適切にもほどがある!」を観ている。笑いの中にも、いろいろ考えさせられて面白い。
("コンプラ"や、"〇〇ハラ"としきりに唱えられる現代と、その逆をいく昭和時代等。どちらが良い悪いとかではなく考える機会をくれるドラマだ。描かれ方も偏りはないようにみえる。)
私は昭和時代を生きていないけれど、昭和の真っ只中を生きている先輩方はおっしゃっていた。
"褒められても、人間そうそう変われないでしょう"と。
私は、昭和以前、平成、令和(Z世代と言うのかな)どの時代が一番いいとかいう考えはない。
全ての時代に良さも、そうでないこともあるだろうし、時代背景が違えば価値観は変わっていくのは当然だと思う。
全ての時代を尊重したいと思う。
そう考えながら、上記のような言葉は、私の中でふとしたときに浮かんでは消える。
否定じゃなくて肯定で溢れていってほしい。
その上で実は厳しい言葉や指摘は、否定ではないことも多い。
何にも言われないことの方がこわい。
そのことで、防げたかもしれない災難や、変われたかもしれない自分がいるのだとしたら。
しかしこんな風に言いながら、そんなに自分を冷静でいさせるのは簡単ではない。
だからこうして、自分から自分へ言い聞かせている。
一つ一つを、驚かずありのまま、静かに受け止めていけるように。