宇治川を渡る


2017年9月4日



奈良へと南下する。

大きな目的地を定めない旅行とはいえ、すでに今夜のホテルを確保してしまったので宇治川を渡った。

宇治川を雲水渡る野分哉

かつてこんな駄句を詠んだことのある私だが、今は俗に汚れた中年親父が車で渡っている。
実際に雲水が歩いていれば絵になるのだが、その姿はなかった。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉   蕪村

鳥羽殿は朱雀大路の南方にあった鳥羽離宮のことで、平清盛によって後白河法皇が幽閉された場所だ。
おそらく後白河法皇救出のため、南都から離宮へ急ぐ騎馬武者を詠んだものと判断する。

一般的には蕪村の想像句とされていて、それでもこの句を思うたびに、うん、これは宇治川(橋はなかった)を渡っている佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」に想を得た光景に違いない! と勝手に決めつけている。

ここを訪れれば、やはり源氏物語の宇治十帖に登場する「夢浮橋」である。
数年前には「浮舟宮跡」の石碑まで建立されたと聞く。

浮舟宮の由来には立派な祀神が存在し、それなりの権威付けがされているが、どうも後付けの匂いがするし、宇治川に身を投げたものの、浮舟が助かったのは観音信仰の御威光とされているから、神仏混淆もお構いなしだ。

このようなことはよくある話で、世界中に満ちているから、なるほどね、程度で受け止めよう。

フィクションが蚕ならば、それらは繭である。
最近の「聖地巡礼ブーム」などは典型的なものだ。
読者は繭の糸となって異次元を行き来し、フィクションの蛹を幾重にも包み込む。

源氏見ざる歌読みは遺恨のことなり

と言ったのは、定家の父、俊成である。
源氏物語を読んだことのない歌人は遺憾であると断定し、当時の「文化人」の資質を問うている。

ここで源氏物語を引っ張り出して確認する時間もないので、またの機会に。
白状すると、通して全巻を読破したことがないのです。
だから偉そうなことは書けません。

宇治に来たら平等院だろうとは誰もが考えることで、こちらもその気になりかけたが、最近、創建当時の色彩に復元したとのニュースなんぞも見てしまっているので、興味半減でパスすることに決めた。

またここで山頭火の日記と句を載せる。
彼も京都から奈良方面に向かった。

三月廿二日 晴。

もつたいなや、けふも朝湯朝酒。
十時出立、宇治へ。――
平等院、うらゝかな栄華の跡。
汽車で木津まで行つて泊る。


うらゝかな鐘をつかう 山頭火

御堂のさびも春のさゞなみ 同

春日へ扉ひらいて南無阿弥陀仏 同


伽藍が古ければいいというものではないが、かつて何度か訪れ、そのたびに感じた寂れた印象の懐かしさが忘れられない。
訪ねてしまえば、古代から中世へと移行する歴史の栄枯盛衰に想いを馳せるインセンティブが、確実に上書きされてしまうではないか。

好きなものを好きといい、嫌いなものを嫌いといいたい。やりたい事をやって、したくない事をしないようになりたいのである。

上も山頭火の言葉で、全面的に同感する。
意識とは、感情によって作り上げられたイメージの集合体なのだ。

だから、東京では「アンチンボルド展を見に行こう」とずいぶん誘われたが、あんな気色悪い絵はご免(嫌い)である。
感情が生理的に拒否している。

但し、頼政自害の「扇の芝」と、頼政の墓は久し振りにお参りしたかった。
清盛政権下で、源氏の長老として従三位にまで上り詰めた頼政の辞世は哀れが深い。

埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果はあはれなりける

平氏に攻められ、宇治川を越えた果ての自害ゆえに、その亡骸が丁重に葬られたとは考えにくいが、供養の場であることは事実で、だからこそ墓所は平等院がふさわしく、謡曲に関心のある方なら当然ご承知だろう。

などと話はまとまらないが、京都に後ろ髪を引かれ、奈良へ入るのを遅らせているだけなのだ。

京にても京なつかしやほととぎす   芭蕉

鮎落てたき火ゆかしき宇治の里   蕪村

秋晴れや宇治の大橋横たわり   富安風生

いつの時代にあっても、橋は彼岸と此岸双方を見つめているように思える。

明けくれに昔こひしきこゝろもて生くる世もはたゆめのうきはし   与謝野晶子

定家の

春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空

が浮かぶのは仕方あるまい。

与謝野晶子訳の源氏物語はすべて読み切りましたが、それで原文を読破したことにはなりませんね。

続きます。

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