私たちは何を複製しているのか? 『利己的な遺伝子』を読んで【基礎教養部】
リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子 40周年記念版』を読みました。
ドーキンスは遺伝子が、私たちのような生存機械を使って将来の遺伝子プール中における自分の数を増加させるように利用していると主張した。遺伝子は自己を複製する能力を持つ。遺伝子は、自己複製子という一つの自然淘汰の単位であると。
一般に「遺伝子」というとゲノム(全遺伝情報)の中のタンパク質を作るための情報が書かれて(コードされて)いる領域の部分とされるが、ドーキンスは、それとは異なる意味で「遺伝子」という言葉を使っている。
厳密に言うなら、この本には『利己的なシストロン』でも『利己的な染色体』でもなく、『いくぶん利己的な染色体の大きな小片とさらに利己的な染色体の小さな小片』と言う題名をつけるべきだった。しかしどう見てもこれは魅力的な題名ではない。そこで私は、遺伝子を何代も続く可能性のある染色体の小さな小片と定義して、この本に『利己的な遺伝子』と言うタイトルを付けたのである。
つまり、ここで言う遺伝子とはコード領域や非コード領域に関わらず、自然淘汰の単位として機能するに十分な期間にわたって維持される染色体の任意の部分として定義している。わざわざこのような言い方をするのは一般的な、タンパク質のコード領域を「遺伝子」という呼び方を採用すると、非コード領域には自己複製子の特性が無いように見えかねないからだ。
ヒトゲノムにおいてタンパク質のコード領域はわずか1−5%と言われており、ヒトゲノムのほとんどは非コード領域である。この割合が生物種によって異なる。ヒトゲノムにおいて95-99%もの割合を占めるこの非コード領域を無視することはできない。タンパク質にならない非コード領域には、翻訳までいかないがmRNAへの転写が行われる領域がたくさん発見されており、これらだって立派に自己複製子の特性を持つ。
ヒトゲノム解読プロジェクトの開始が1990年で終わったのが2003年である。一方、『利己的な遺伝子』の初版の発行は1973年である。ゲノム解読前に、自己複製子としての「遺伝子」をタンパク質コード領域に限定しなかったドーキンスには驚かされる。
ところで、ドーキンスは、「遺伝子」を自然淘汰の単位と定義している。個体を自然選択の単位として機能しない、すなわち集団中の頻度が、その遺伝子の成功の指標であり、個体はこの特性を示さないと言うのが、この本の中心的なメッセージの一つであるが、自然選択の単位が個体では無いだけでなぜ遺伝子なのだろうか。なぜ、遺伝子が自己複製子の単位なのかということだ。
遺伝子は何で構成されているかというと皆さんご存知の通りDNA(デオキシリボ核酸)である。DNAはヌクレオチドを一つの単位としてそれが連なったものです。そしてこのヌクレオチドをさらに細かく分解すると「リン酸基」「糖」「塩基」の3つの物質で構成されている。さらに塩基はA(アデニン)、T(チミン)G(グアニン)C(シトシン)の4種類が存在する。一応さらに細かく分解すると原子や分子ということになる。
ではどうしてヌクレオチドや、リン酸基や糖や塩基が自己複製子の単位では無いのだろうか。どうして、ヌクレオチド単体では複製機能を持たないのだろうか。この問いに対して、情報をもたないからだと私は答える。
40周年記念版へのあとがきにも書かれていた。
複製が正確なため、遺伝子という存在は、正確なコピー情報という形で何百年も生き延びることができる。
ヌクレオチド単体は文字の「あ」みたいなものだ。この文字が「ぶんれつしろ」と並んだものが、遺伝子である。
ここで重要なことを忘れている。情報が情報として受け取られるにはその情報を読み取るものの存在が必要である。「ぶんれつしろ」の文字列を日本語を知らないイタリア人が見ても、そこから何も情報を引き出せない。この意味で「ぶんれつしろ」は「あ」と等価である。つまり、遺伝子が複製するためにはその情報の翻訳者が必要である。では自己複製子におけるその翻訳者とは誰か。もちろん自己複製子自身である。
情報が複製されるための条件はなんだろうか。その情報の媒体を複製する機械を利用することである。文字情報ならノートに書くことや本として出版することだ。では、情報が自己複製するための条件はなんだろうか。それは、上の条件に自分を認識するという条件を付け加える必要がある。
自分を認識すること(自分の中の情報を翻訳すること)
もしかしたら自己複製子が複製する時「自分を複製しろ」と命令する遺伝子がないことを危惧するかもしれない。しかしその心配はいらない。直接「自分を複製しろ」と命令するリーダーがいなくても、「卵を作れ」「分裂しろ」などのあらゆる命令の重なりによって遺伝子は複製されるようになっている。信じられないかもしれないが、現実にそうなっているが残ってきたのだから仕方がない。
ウイルスは自己複製ができない。だから生物ではないと言われる。しかし、ウイルスは遺伝子を持ち、他の生存機械の複製機能を利用して複製する。
ドーキンスは、旋律や、観念、キャッチフレーズ、壺の作り方などのミームが新たな自己複製子だというが、私はそうは考えない。ミームを認識しているのは人間の脳である。ミームはミーム自身を認識していない。ミームは情報として複製されている点で遺伝子と似ているが、決定的な違いはミームが自己を認識していない点だ。一方で、ウイルスの遺伝子は自己を認識して利用している。(自分に書かれている遺伝情報を利用している)
ミームは、複製されるが自分の情報を利用することはない。だから、自己で複製することはできない。複製にはミームは自己複製子というより、単なる複製体と記述する方が正しいと思う。
私たちが複製しているのはゲノムだ。そして欲しいのはそのゲノムに付随する情報である。だがそれだけでは足りない。
自己複製子たる私たちは、「私は私である」と言う認識を複製せねばならない。