『この人の閾』 保坂和志
久しぶりにこんな本が読みたいと思っていた。
力が抜けて気持ちがゆるくなる。
可もなく不可もない日曜日の午後のような小説だ。
お父さんはソファー寝そべってゴルフか競馬かNHKの紀行番組を見ている。中学生の娘は友達との約束もなく部屋にいる。一日中家にいるのもなんだから一緒に買い物に行かないかとお母さんが誘い、娘はどうしようかなと言っている。
そんな何でもない穏やかな時間。
ただそこに実は、誰も気がつかないくらいのミクロな哲学が紛れていたりする。
手触りを例えるならば、そんな感じの小説だ。
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37歳の「ぼく」は仕事で人に会う約束があって小田原まで出掛けてきたものの、約束の相手が不在だったため数時間の空き時間ができた。
小田原には大学時代の一年先輩の真紀さんが住んでいることを思い出した「ぼく」は、連絡を取ってみる。
というわけで、「ぼく」は真紀さんの家に招かれる、という物語。
物語というほどのものでもない。
今この瞬間にも、日本中の至る所でこんな空気がひっきりなしに醸成されているのではないかと思えるような、いたって平熱の、いたって何気ない時間が淡々と描かれるだけだ。
2人は缶ビールを飲み、庭の雑草取りをしながら他愛のない会話をする。
真紀さんは「ぼく」に雑草に関するちょっとしたレクチャーをする。ふとした流れで友人の噂話になる。真紀さんは軽い夫婦論をぶってみたり、「ぼく」は軽いサラリーマン論をぶってみようとしてやめたりする。
そのうち真紀さんの息子が帰ってきて、一緒にリンゴを食べながらサッカーの話をしたりする。
ひたすらに、日常で市井で穏やかな時間。
そうやって会話をしながら、「ぼく」の脳内にいくつかのささやかな哲学的な考察が、泡のように軽く膨らんでは消える。そんな偶発的な考察または意見のいくつかを「ぼく」は真紀さんとシェアし、残りは「ぼく」の頭の中だけで消えていく。
最近どんな本を読んでいるというような話の流れで以下のような会話になるところからが、物語(または「ぼく」のささやかな哲学散歩)のハイライトと言えるだろうか。
この後に続く会話の行先で真紀さんが、「言葉がない、つまり言語化されなければ人間にはそこに何があるかわからない」、「言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである」というようなことを言う。
ああ、そういう「何もないと限りなく同じ」が私たちの人生には満ちていて、それは別に悪いことではないけれど素晴らしいことでもなくて、この小説はもしかしたらそういうことを書いている小説なのかもしれない、と思う。
そうしてまた2人は友人の話に戻ったりして、「ぼく」の約束の時間が来て、さらりといとまを告げる。
楽しい読書だったな、またこんな小説に出会いたいな、と思う、心の小箱に入れておきたくなる小品だった。