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読書=○で過ごせる時間だった
数年前。
司書という仕事に就いて驚いたことの一つは、なにかをインプットするために読書をする人が割といらっしゃるということだった。
⒈まずはごめんなさいから。
著者の方々(というか、本に関わっている方々)には怒られるかもしれないけれど、私にとって読書は自分の思考を停止させてくれるものでした。
なにも考えず無で過ごせる時間だったのです。
そのため年間150冊程度読んでいたときも本の内容をあまり覚えていないし、当然人に本をすすめることも驚くくらい下手でした。
だって、内容を覚えてないですから。
「面白かったよ」「探偵が出てきたよ」「ご飯が美味しそうやったよ」
これが当時の精一杯のおすすめ文句でした。
⒉それでどうやって司書をしてたの?
なので司書をしていたときは色々な読書アプリにお世話になっていました。
本を読んではどんな内容だったか、どんな人におすすめしたいのか、ちょこちょことメモをとる。
最初はメモをとることでいちいち思考が復活することが煩わしかったけど、自分がおすすめした本を利用者様が喜んでくださればとっても嬉しかった。
そして利用者様の顔を浮かべながらだと煩わしいなと思っていた感想等をメモしながら本を読むこともだんだんと楽しくなってきた。
もっともっと、喜んでもらいたい。
小説だけではなく、多種多様なジャンルを、どんな利用者様のどんなリクエストに対しても最低限はお応えできるように。
そのおかげで、今までの自分なら絶対に読まないであろうジャンルの本にも手を伸ばすようになり、自分の枠組みを広げるためにはとても良い経験をさせてもらったと思っています。
⒊海がなければむりだった
ただ、実はここ数年、本をあまり読まなくなっていた。
仕事のためなど読むべきものは読めるけれど、それ以外の、いわゆる趣味的に読書をすることがあまり出来なくなっていた。
ここ数年、趣味的に読んだ本の冊数は年間10冊程度。
一般的には少なくはないのかもしれないけれど、それまで年間150冊程度読んでいたので個人的には劇的に読まなくなっている。
なぜ読まなくなったのか。
理由は明白で、本を読んでいるあいだも思考が優位になる状態になってしまったから。
おすすめ本を選ぶときはそれでいいけれど、趣味的読書のときはそれだとちょっとしんどい。
そもそも私は本を読んでいるときくらいしか思考が停止しない思考優先型人間なのだ。
もう睡眠中くらいしか完全に思考が止まることはない。
当時はそれなりにしんどかったが、幸い、自然豊かな場所に住んでいたので海に行ったりすることで気を紛らわせていた。
⒋セラピーとしての読書
そしてここ数ヶ月、趣味の読書が少し復活した。
本を読んでいても「この本をどんな人に届けようかな」と考えなくなってきた。
なので月に2〜3冊くらいをゆるゆると読んでいる。
やはり内容はあまり覚えていないけれど(どちらかといえばイメージでインプットされている)、読んだあとは確実に緩んでいる自分がいる。
無になる=何かを目的としない読書が自分には必要であると実感している。
そして私にとって何かを目的としない読書はセラピーの一種なんだろうなと感じている。
事実、イギリスでは薬ではなく本を処方する取り組みが行われている。
読書は一般的に知識や知恵、感受性など何かを得るために行われることが多い。
だけどもしかしたら、なにも目的としない読書も(こそが?)今後は必要とされるのかもと思ったりしています。
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