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窓の外の僕を見ていた

世界の設定が人と少しズレているらしい。変な自分アピールではなくて、まぁまぁ切実に困る場面が多い。

たとえば「レンガテスト」。通常は建築に使われるレンガに他にどんな使い方が出来るかを問う思考テストだ。普通は「何かを支える足場にする」「ベランダに敷き詰めてインテリアにする」とからしく、少し高度になると「節約のためにトイレタンクに入れる」になるらしい。

私のレンガテストの回答は、「粉々にして額縁にする」「森でトラップを作るときの重しにする」「レンガを遠くまで投げる競技を作る」などで、毎回、そういうことじゃないんだよと指摘される。つらい。

間違い探しの派生系の「足りないもの探し」というゲームでも同じことが起こる。紙に描かれている牛の絵を見て、この牛に何が足りていないかを探すゲームだ。その時の正解は「四本ある足の内、一つだけ蹄の割れ目が描かれていない」だったのだけれど、私は全く見当違いのことを延々と考えていた。

「うんと、絵の感じからしてこの牛は放牧されている可能性が極めて高い。でもこの牛には鼻輪もないし、耳に付ける識別番号もない、身体にも番号はペイントされていない。欠けている部分が多すぎる。この問いは一体どの程度の『欠損』を想定しているのかな」と、問題の意図をまず探る羽目になる。そしてそれは普通ではないらしい。最初の設定から少しズレているのだ。

だから普段は言動や行動ができるだけ普通に見えるよう努力している(たまに「俺変わっていてさあ」と声高に誇る人がいるけれど、本当に変わっている人はたいてい口をつぐみ、普通であることを望み異質さを隠すものだ)。日常は大抵がレンガテストや足りないもの探しのようなものなので、初期設定が少しズレているとちょっと困ってしまうのだ。

だからこそ、世界の設定が根底からズレている人を見るとうっとりする。ちまちま普通を求める私からすると、行き切っている人にいっそ憧れるのだ。昨日はまさにその場面に遭遇してくらくらした。

ーー私のアパートに遊びに来ていた女の子がトイレからリビングに戻るため引き戸を開けた。けれど何かに気がついたように半分開いたところで止め、彼女のちょうど正面側にあるベランダの窓の先にある何かを見つめていた。私は彼女から死角のソファーに座っていて、なかなか部屋に入ってこない女の子を見ていた。20秒ほど経ってもずっとドアの反対側の窓の外を見ていたので、どうしたの?と声をかけた。

彼女は少しだけ驚いたようにこちらを見て、「なんだこっちにもいたんだ」と言った。くらくらした。

聞けば彼女は、濃い白のレースのカーテンの先にあるベランダの、そこに干されている洗濯物のシャツが何故だか私に見え、私がベランダでたそがれていると勘違いしたらしい。そしてそれを眺めていたらしい。彼女は窓の外の僕を見ていたのだ。

トイレに行く前は私がテーブルに座っていたこと、戻ってきた時に彼女の死角のソファーに移動していたことなど、女の子の勘違いに無理やりフォローの理屈を付けることは出来なくはなかったが、私はそれどころじゃなかった。彼女は確かに「こっちにもいたんだ」と言った。「わっ、びっくりしたこっちにいたんだね」でも「目の錯覚って怖いね」でもなかった。女の子の世界線では現実空間に私が2人同時に存在することが許容の範疇であることにうっとりした。世界の設定が根底からズレていることにくらくらした。

私は女の子が部屋の引き戸をズラした時、部屋のソファーにいながらベランダでたそがれてもいたのだ。

世界の認識が根底から違うこの女の子が、ベランダで黄昏れている私をそっとしていてくれたことも光栄だった。きっととても優しい人なのだ。

それから2人で色々と雑談をしている最中、彼女は定期的にちらりちらりと窓の外を見た。ベランダにもう一人の私がいたのかもしれない。その感覚は怖いよりも光栄で、なんだか肯定された気持ちになった。「今日はくらくらさせてくれてありがとう」と言った。彼女はどういうこと?という顔でこちらを見つめ、急にイヴ・サン=ローランの成し遂げた偉業を話し始めた。世界は今日も正常だった。みなに幸あれ。

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