見出し画像

「そんなことないですよ」と言ってもらうまでがセットな人

やばい相手に見つかった時の対処方法は2つ。戦うか逃げるか。いわゆる闘争逃走本能(fight-or-flight反応)と心理学用語で呼ばれるものだ。鋭い牙を持ったサーベルタイガーに遭遇したらファイティングポーズか全力疾走かを瞬時に判断したほうが良い。

けれど今は現代で、やばい相手と場面は多様化している。職場等すぐには逃げ出せない場合ばかりで、「いなす」「受けて止める」「帰ってからケアする」「愚痴を言い合う」「労基に通報」「怪文書を送る」などの処世術を上げると枚挙にいとまがない。それでもなんだかんだ、やばい相手だと認識出来ているという点ではまだ救われる。

でも実は、処世術を持つっていうのはそんなに難しい事じゃあない。もっとも恐ろしい事は! いいかい! もっとも恐ろしい事は! 一見すると刃物を持っていないように見える人が実は精神的に遅効性の不快感を与えてくる隠れた思考の刃物の持ち主だと気づかないことだ! とまぁまぁ本気で感じるのです。

彼らは直接攻撃してこない、間接的にも攻撃してこない、悩みーーもしくは本人すら気づいていない染み付いた負の思考ーーという形で、遭遇した相手が遅れてこっそり疲弊するのだ。たとえば「そんなことないですよ、と言ってもらうまでがセットの人」がそうだと、最近やっと気付いた。

彼ら、と少し距離を置いた言い方をしたけれど、それは母であり父だった。妹であり親戚であり、友人でありかつての恋人でもあった。つまり「彼ら」はかなり身近にいたりする。

母が何かしてくれて、私がありがとうと言う。母は「いや、あたしは普段全然何もしてあれられていないの。今日はたまたましたけど、これまで何もしてこなかった」と言われると、私は「そんなことないよ〇〇だよ」と答える。

誰かがありがたいと思ったから感謝を伝えてくれ、すごいと感じてくれたからすごいと言われた時に、過度の謙遜や自己卑下をしてしまうと「そんなことないよ」以降のフォローまで相手に強いることになる。それってお互いによくないなぁと思う。

せっかく悩みを聞いてくれた相手に、もしくは感謝や気持ちを伝えてくれた相手に、「いや自分なんて全くもって駄目で」と言う/言われるがあると、「そんなことはないよ」の負担が生じる。

とはいえ、「そんなことないよ」までがセットな場合は誰しも起きるし自然なことでもある。それは気を抜くと自分だったりもする。けれど、悩みや負の思考が染み込みすぎている状態だと、常にそれが起こるので相手に「そんなことないよ〇〇だよ」のフォローを強いて疲弊させてしまうのじゃ。

ーー先日母がそういう人間だとやっと気づけた(物心付く前から当たり前だったことには疑問を抱きにくいものだ)。久しぶりに帰省したときに、私は母とのほぼすべての会話で「そんなことないよ〇〇だよ」を使っていたのだ。気づかぬふりをしていたけれど、定期的に帰省する度にそうしていた気がする。

現代版の闘争逃走本能はバリエーションが豊富で、今回のケースで一番無難なのは何事もなく過ごし普通に帰ることだった。でもなぁ、母はきっと母の友人とか職場の人とか色んな人に同じことをしているんだよなぁ、それに帰省の度に「そんなことないよ」を言うのは疲れるのだよな。そう思って私は「それは相手の負担になるからやめたほうが良いよ」とストレートに言って自分の問題から切り離した。後は母の問題で、彼女はこれからどうするか決めるのだろう。意識的でもそうでなくても。

母にストレートに言ったあと、私は子どもの頃に遊んでいた近所を少し歩いてみた。この道は永遠に変わらないのではないかと目眩に襲われそうなほど近所は昔のままだった。闘争逃走本能と一緒で、この道は普遍的で永遠なのだろう。

ーー子は親にどうしても期待の一縷を捨てきれない。これはまた別の、普遍的で永遠の問題なのだろうな。とふと思った。みなに幸あれ。

いいなと思ったら応援しよう!