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いつも隣にレディ

深い森の、獣道に近い山道の先にひっそりとある、森の一部のような日本家屋に住んでいる人がいた。

その人は職場の先輩で、山中さんといった。以前、山中さんの同期の先輩たちと4人でうなぎを食べに行ったときに、思ったことをすぐ口に出すちさと先輩が「山中くんの家って田舎の森の中にあるって本当? 今度行ってみたい」と言い、山中さんが二つ返事で承諾してくれた。

そうして、そのときのメンバーで山中さんの日本家屋(それもひとり暮らしの!)に泊まらせてもらうことになった。

いわゆる縁側があって、窓が大きく、とにかく開かれている感じのする家に魅入っていたら、ちさと先輩が「本当に山中くんのような家だね」と言った。そのとおりだと私は思った。

山中さんは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のような人だった。いつも静かに微笑んでいて、仕事ができるのに驕ることがなかった。浴びるように飲むスタイルの社内全体の飲み会に行っても、媚びない自然な微笑を絶やさず、偉い人に絡まれるようなシーンでも、苦笑しつつでもそれほど嫌がってもいないようにも見えた。自分を閉ざさず、いつも少し開いているのだ。

家の中も整理整頓されていてーーそれは来客があるからではなく日常的なものだと感じさせたーーまた行き届いてもいた。

家についたのが遅い時間だったこともあって、山中さんの家で遅めの夕食を食べ、程よくお酒を飲むと、激務続きだった先輩たちは早々に畳の上で眠り込んだ。

2人になり、しばらく経ったあと、私は入社当初からずっと疑問に思っていたことを山中さんに聞いてみた。

「どうしてそんなにきちんとできるんですか? 何もかもが完璧だったらそういう性格なのかと納得できるけど、家も、仕事も、神経質じゃないほどよさを残していて、なんというか、こんな人いるんだと思ってしまいます」

山中さんは一瞬だけ凄みのある目で視線をそらしたあと、「俺、高校に行ってなかったんだ」といい、「けっこう長く引きこもったあと、『レディ』に出会った」と言った。

山中さんと「レディ」の話

「俺、高校に馴染めなくてすぐに退学したんだよね。何年か引きこもって大検受けて少し遅れて大学に入って、今の会社に入社したんだ。引きこもっていたときに住んでいた実家の部屋はちょっと笑えないほど汚かった。会社に入社する少し前くらいに『いつも隣にレディ』がいると思って過ごそうと思った」

意を決して話したという感じではなかった。とてもスムーズにフラットに山中さんは続けた。

「ある戦争が終わる間際、ヨーロッパのとある部隊が数十名、敵国に捕まって地下牢に閉じ込められたんだ。たしか5人ずつ別々の牢だったと思う。ただでさえ劣悪な環境だったのに、悪いことに敵の基地が攻撃され、地下牢への入口が封鎖されてしまったんだ。戦争が終わり味方に救出されたとき、正気を保っていた人たちはほとんどいなかったらしい。でも一つの牢屋だけは5人全員が無事だった。その牢屋には『レディ』がいたんだよ」

「レディですか?」

「そう。その牢屋では、リーダー格の人が『ここに架空のレディがいることにしよう』と言ったんだ。着替えるときも、トイレのときも、いつも隣にレディがいると思って過ごそうと言ったらしい。極限状態で喧嘩が起きたときも『やめろ、レディの前だぞ』と言ったみたい。そのエピソードがなんか好きでね」

だから俺の隣にもいつもレディがいるんだ、と山中さんは言った。俺は皆が思っているような人間じゃないし、心にはちゃんと修羅があるよとも。

山中さんが視線を右側に移す、畳の上で2人の先輩が寝息を立てている。

「なんでも良いんだよ。ちさとちゃんみたいに『いつも素肌にマメクロゴウチ』でもいいし、後藤くんみたいに『いつも内ポケットに万年筆』でもいい。皆がしている、自分をぴしっとさせてくれるものが、俺の場合はレディなんだ」と話した。

レディと修羅

つまり自分を律しているのだろう、と私は思った。ただ、隣のレディからの視線(他者視線)からでは限界があるんじゃないだろうかとも思った。山中さんのそれは、他人からの視線で自分を律するだけでは説明がつかない凄みがあった。

おそらくだけど、山中さんが本当に大切にしているのはレディからの視線ではなく、自分がどう在りたいかなのだろう。隣のレディに気持ちよく健やかに過ごしてほしいという気遣い。そのほうが、長続きしそうな気がする。

というようなことを私が言うと、そうかもしれない、と山中さんが笑った。

How to ではない、その人の毎日から生み出された日々の哲学を聞くのってやっぱり好きだなぁと思った。けれど少し心配にもなった。

もし今の山中さんが後天的/意識的に創られたものなら、山中さんが言うようにこころに修羅があるのなら、どこかで閾値を超えて、山中さんがいつか壊れてしまうのではないか。

ただここから先は、私がたやすく立ち入れる領域ではないなと思い話を終えた。

たまに隣にカーヴィ

そこから他愛のない雑談をしばらくして、お手洗いを借りるために部屋を出た。細くて長い廊下の突き当たりのトイレの途中で、外からの光が漏れている部屋があった。山中さんの寝室だった。40センチほど開いてある引き戸から、ちらっと中が見えてしまった。

山中さんのベッドに、星のカーヴィのかわいいぬいぐるみが置いてあった。

よかった、と思った。修羅がありながら「レディ」のためにちゃんとしている山中さんは、きっと自分のこともきちんと大切にできていると思った。たまに隣にカーヴィがいるお陰で、山中さんはすやすや眠り、「レディ」と「修羅」のバランスを保てているんだろうと思った。

How to ではない、その人の毎日から生み出された日々の哲学を知るのはやっぱりとても好きだなぁと思った。

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