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覚悟はいいか、俺はできてる。

覚悟ほどやっかいな言葉はない。

私は覚悟という単語を聞くたび「ひっ」となり、使っている人を見ると本当に大丈夫? となり、覚悟したものを守り続ける人の気高さにうっとりする。

覚悟の先に待ち受けているものは、その言葉のある種の使いやすさよりもっとずっと重々しいものだ。そして覚悟には、実はいくつか種類がある。

以前、私は念願の仕事につくため実家から1000キロ以上遠くの見知らぬ土地で就職した。残業がありそうだな、とか、厳しい上司がいるかもしれないなとは覚悟していたけれど、自由意志と言って実際は強制的に入らされるその土地特有の団体があること(入らないと職場の皆から無視され、業務ができなかった)、陰湿なイジメが横行していること、サービス残業はまだしも休日に頻繁に突然呼び出される覚悟はなかった。というより、想定していなかった。昔も今もかなりクリーンなイメージの業界なのだ。

それで、電話で友人に泣き言を言うと「どうしてもやりたかった仕事なんでしょう。覚悟を決めたんでしょう」となった。

わかる、わかるのだ。けれど、私が出発前に使った「覚悟」にはリアリティがなかったのだ。

残業や厳しい上司は想定していた、いうなれば「リアリティのある覚悟」だった。逆に、イジメや謎の団体、休日の過度の呼び出しは想定していない「リアリティのない覚悟」だった。それを十把一絡げにぼわっとした「覚悟」で括られると、なんだかなぁと思ったのだ。

覚悟覚悟と言ってこの会社に就職したけどしんどい、覚悟しんどい。ここまで大変な場所だとは思っていなかった。と、当時は思った。

同じような出来事が二個三個増えるごとに、だんだんと、私は個人的な体験からくる暮らしの哲学を見つけた。

ーー覚悟とは、いつも後になってからその真価を問われるーー

何かをする前に使う「覚悟」は(それが本当に強い意志であったとしても)、まだ漠然とぽわほわしているのだ。実態がない。実際に経験して初めて、「あのとき覚悟したのだから」という言葉の実感ある重みと対峙する。そこで覚悟を持って進める人には、やはり清々しく強烈な気高さがある。

未体験のものに対して使われる「覚悟」という言葉の精度は低く、使いやすさに見合わない不確実さがある。ざっくりとしたストレスや大変さが想定される場面で、何があるかわからないからこそ「覚悟」という漠然とした言葉を言い合うけれど、使用する際は用法用量を守ったほうが良いのかもしれない。

けれど一つだけ、覚悟という言葉が現実の重みと釣り合って使える場合がある。

一度経験した出来事に対して使われる「覚悟」だ。

一度外国での生活に失敗して、でもまた似た環境に行くと決めた「覚悟」、過去に大失恋して今また大好きな相手の手を放そうと迷っているときに使われる「覚悟」、大切な誰かを再び亡くすときの「覚悟」。

ひとつとして過去と同じものはないけれど、それでもあの大変さは知っている。それをもう一回体験する時に使われる「覚悟」は、特に自分に対して使うとき、言葉と重みの釣り合いが取れる。

覚悟はいいか、俺はできてる。

とある漫画のこの名言はやはり、一度経験したものにこそ、正しい重みがわかるのだ。

そんなふうに思っているもので、だから未経験なことに「覚悟」を使ってしかも実際も相当にタフなのに進み続ける人を拝みたくなるほど尊敬しております。

でもまぁ、「リアリティのない覚悟」でも「一度経験した覚悟」でもどちらでも、人がこれだ! と決めきった瞬間は気高くて、うまくいってもいかなくても、その覚悟は素敵なんだと思う。今日も覚悟を決めた人たちが何千、何万といて、世界は気高い瞬間で溢れているのだろうな。みなに幸あれ。


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