絶望に追いつかれない速さで
生理が二週間遅れて母親から腹巻きが送られてきた、と好きな人が言った。腹巻き仲間ができた。
私は15のときから腹巻きをしている。お腹が冷えやすいので夏場はシャツの下に必ずインナーを着て、秋冬は腹巻きだ。あれがあるのとないのでは全く暖かさが違う。異性とキャッキャウフフになりそうな日は付けていない。
でもとある六年は、格好つける日が多かったのでとんと着用しなくなった。その結果、ではないのだろうが、好きな人と付き合えることになり(彼女の許可を得て)腹巻きを再開した。
この人とずっと一緒にいられたらいいなぁと思いつつ、でも知り合って間もないころ彼女が「イギリスに住むのが夢なんだ」と、何かを希求している人特有の透明な眼差しで言っていたのでどこかで愛情に蹴りをつける日が来ると分かっていた。
腹巻きは、彼女との共通点で安心感の象徴だった。
お互い仕事が忙しく、またあまりいい環境ではなかったので、おやすみと毎晩言って、頑張ったねと何度も労いあった。いつか離れる日が来るだろうから、人生分をぎゅっと詰めて、ありがとうと千回言った。
お互いの不本意な未来への不安があって、でも2人でイギリス、もしくは日本に居続ける選択肢はなかったので、だからネガティブに追いつかれないよう全力で日々を走りあった。
そしてきちんと「その日」は来た。
最後の日はまだ少し寒く、UNIQLOの腹巻きをしていた私に、彼女はぽんとカシミアの腹巻きをくれた。ドラマチックな空港での別れではなく、彼女は一旦、地元の岡山に戻り少しして日本を発つらしかった。だから電車で見送った。
私はもちろん感傷的になっていて「電車はずっと来なくていいのに」と言い、前を向いている彼女は笑っていた。
でも電車がホームに来て乗り込むとき、彼女は「あと少しだけそこにいて」と言った。スモークのある、中が全然見えない電車の、ほとんど全く見えない席にその人は座り、しばらくして電車が出発した。私は最後までそこにいた。もうこのまま帰れなくなりそうな気分だった。暁光とは程遠い曇った土曜の午後だったのに、その電車は祝福の光にずっと照らされているような、不思議な感覚だった。イギリスのブレグジット前の出来事だった。
ーーでも現実は残酷で、彼女は現地で想像していたよりずっと過酷な毎日を送り始めたらしい。らしい、というのは、たまに連絡が来たときに言葉の端々から垣間見えただけで直接言われたわけではないからだ。
そしてコロナもあったので、彼女が一時帰国したのか、そのまま頑張り続けているのかはわからない。最後に電話が来たとき2人でそう決めたように、もう連絡をとっていないのだ。
仮に今がどんな結果であれ、清冽な覚悟を決めてまるで夜明けの暗い海にダイブするかのように飛び込んでいった彼女を今でも尊敬している。
最近、私はまた格好つける機会が増えたので腹巻きをしない日も多い。でも家では必ずしている。ごく普通のUNIQLOの腹巻きをしている。
今日クロゼットの中から久しぶりに5年前に貰ったカシミアの腹巻きを見つけて、もうボロボロだったのでほかの使えなくなった靴下やタオルの最後と同様に、洗濯機の床や窓のヘリを拭いてお別れを告げた。「湯冷めラジオ」の『残照』を聴きながら、丁寧に最後まで掃除した。ボロボロの腹巻きは、今でもとても上質だった。
彼女はきっと無事なのだろうと思った。祝福の暁光を冠したままなのだろう。もう会うことはないとしても、やっぱりその人の平穏を願っている。
でももし不安が襲ってきそうなら、ーー走れ、絶望に追いつかれない速さで。
湯冷めしないようおなかをぬくぬく温めて、夜明けの海と、残照の空に、何度だって一張羅で飛び込むのだ。
みなに幸あれ。