マガジンのカバー画像

フィルモア通信 New York

30
運営しているクリエイター

2020年8月の記事一覧

フィルモア通信 New York No14           My Friend Peter Hoffman

フィルモア通信 New York No14 My Friend Peter Hoffman

マイフレンド、ピーター・ホフマン

 ニューヨークに着いた初めての冬、ぼくはソーホーで見つけた日本レストランでキッチンヘルパーのアルバイトをしていた。
レストランの閉店後、従業員のぼくらが食事をとっているころ、固く錠のかかったドアから呼び鈴を鳴らして、スポーツ自転車を担ぎながらピーターはぼくらにコンバンワ、と言った。ここのオーナー、ミキオさんの友人で、すぐそばのアパートメントに住むピーターは日本料

もっとみる
フィルモア通信 NewYork No13       マイシェフ ニーナ

フィルモア通信 NewYork No13       マイシェフ ニーナ

マイシェフ、ニーナ・フラス
 

 ぼくがニーナの用意した牛ヒレ一本を丸ごと食べてしまった事に、
彼女はとても驚いたようだが怒らなかった。ぼくをまじまじと見つめて首を振り「Unbelievable」とひと言呟やいただけだった。

 ニーナはその頃ヒューバーツのヘッドシェフでメニューの実際をレンから任されていた。彼女はぼくより三つか四つ年上でノルウェイ人の父とフィンランド人の母を持つスオミの特徴的な

もっとみる
フィルモア通信 New York No12    空手のフレディ

フィルモア通信 New York No12    空手のフレディ

 フレディはぼくのあとからディナーのラインクックとしてヒューバーツに入って来た。
 
 イタリア系で空手の師範で全米空手トーナメントでどこかの州チャンプになったことがあるという、ぼくより年下の大男だった。イタリアンやアメリカンのレストランで働いていたがヒューバーツの評判を聞き是非入りたいとその時の職場を辞めてやって来た。

 空手の道場はブルックリンのどこかにあるらしかった。日本語がすこし出来た。

もっとみる
フィルモア通信 New York No11 マーサとジョージワシントンの亀のスープ

フィルモア通信 New York No11 マーサとジョージワシントンの亀のスープ

 ヴァレンタインデーのメニューはアメリカの歴史上の有名人の恋人たちが愛した食べ物をとレンがアイデアを出してきた。ジョージ・ワシントンは妻マーサのために彼女の好物であった亀のスープを作ったとレンは話し、これをメニューに載せようということになった。
 
 ぼくはその亀というのはウミガメじゃないの、と訊いてみたがウミガメは保護しなければいけない動物で食材じゃないと、みんなは言った。
 
「普通のタートル

もっとみる
フィルモア通信 New York  No10     牛ヒレ丸ごと1本

フィルモア通信 New York  No10     牛ヒレ丸ごと1本

 レンとピーター、そしてぼくらが働くシフトが組まれたある夜、最初の混み合う時間にアペタイザーを出し終わり、レンとピーターがメインディッシュの準備に忙しい間、ぼくはダウンステアーのプレップキッチンに降りて行き、昼の間にニーナが下拵えしておいた明日の予約のランチパーティーに出すビーフウェリントン用のテンダーロインを手に取った。
 

ビーフのことはあまり知らなかったし、テンダーロインはアメリカでも高価

もっとみる
フィルモア通信 New York No9            キャサリン・アルフォードとキムチツリー

フィルモア通信 New York No9 キャサリン・アルフォードとキムチツリー

 ヒューパーツレストランのランチシェフはロミーだった。彼が料理したフィリピンテイストの新鮮で素朴な味は、食に関心を寄せるアーティストや若い料理人たちに支持され、ほかの店には見られないメニューを作った。ロミーは完璧な英語とユーモアでキッチンクルーをまとめ、毎日変わるメニューへのハードワークを引っぱっていた。
 
 彼は素材の吟味に厳しかった。プロデュースカンパニーが持ってきたパイナップルの全部をゴミ

もっとみる
フィルモア通信 New York No8 レン アリソンとカレン ヒューパーツ

フィルモア通信 New York No8 レン アリソンとカレン ヒューパーツ

 カレン・ヒューバーツ女史とレン・アリソン教授

 ヒューバーツレストランはカレンとレンの二人がまだブルックリンの小さなアパートに住んでいた頃、自分たちの部屋にに友人たちを招きカレンの料理をレンがもてなして、アメリカ料理の変遷や歴史、地方料理の歴史やアメリカ文学史を語るという、英文法の大学教授らしい彼の料理に対するアプローチが文学や造形、絵画のアーティストに受け、だんだんと評判を呼びカレンの両親の

もっとみる
フィルモア通信 New York NO7        ダグマール

フィルモア通信 New York NO7     ダグマール

 スカンジナヴィアの名前のとおりにダグマールは北欧女性のように肌が白くブロンドの髪が輝いていた。ブラジル人らしく陽気で、笑うと青い瞳が細くなった。

 ローウァーイーストサイドの英語学校で知り合ったころ、ぼくらは二人とも仕事が無かった。彼女はブルックリンに住んでいた。
 
 ぼくよりも数段英語が出来たが仕事は見つからなかった。お金を貯めてカレッジに行きジャーナリズムを勉強するのだと言っていた。サン

もっとみる
フィルモア通信 New York No6  アメリカの夜 

フィルモア通信 New York No6 アメリカの夜 

 ベトナム戦争時の外交補佐官だったドクター・ヘンリー・キッシンジャー氏のパーティーがあったのは、とても冷える冬の夜だった。
 
 そのパーティーのために作ったラムのローストミント風味、胡瓜と海老のシェリーサラダ、ブルーチーズのスフレなどを次々とダイニングルームへ送り出し、オーブンやスチーマーはうんうん、シューシューと働き、
背の高いシャンパングラスが音をたててキッチンに運び込まれたりするなか、オー

もっとみる
フィルモア通信 New York 80’s No5

フィルモア通信 New York 80’s No5

 ニューヨークで暮らすうち、自分のなかにやはり自身はマイノリティであるという意識が育ちつつあった。職場では白人ばかりが良い条件で働いていて、黒人やベトナム人、中国人等は皿洗いやバスボーイの仕事で安い賃金で重たい労働をしている。自分は東洋人だけれど技術が有り、オーナーとも知り合いになっているから高給で条件も良いと他からも言われ、苦しい思いをしていた。

 ある時キッチンの床やステンレスの壁が汚れてい

もっとみる
フィルモア通信 New York 80’s No4

フィルモア通信 New York 80’s No4

 九月のとても暑い日、JFK空港に着いた。次の日からまたヒューバーツレストランとニューヨークの生活が始まった。
 
 レストランの経営は厳しかった。オーナーの望む料理は他のレストランの誰も作っていない新しい料理でアメリカの特にニューヨーク近郊の農産物を使ったシンプルで健康に配慮した伝統的なアメリカの地方料理をエスニックのスパイスや新鮮なハーブを使って伝統をリメイクするという、ぼくにはまだよくわかっ

もっとみる
フィルモア通信 New York 80`s No3

フィルモア通信 New York 80`s No3

 ヨーロッパには四ヶ月いた。たくさんの若者たちと知り合った。今から兵役に行くスペインの二十歳の男、イスラエルの女の子二人もこれから兵役に就くと言っていた。ドラッグを持ち歩くスウェーデンの若者、どこもかしこもドラッグだらけさ、お前もやるかと聞かれた。

 アイルランドでヒッチハイクをした時は家まで食事によんでもらい、神の恵みについて話してもらった。列車の中で知り合ったり、コンサートで知り合ったして、

もっとみる
フィルモア通信 New York 80`s No2 旅は続く。

フィルモア通信 New York 80`s No2 旅は続く。

 ニューヨークに着いた。ソウルとアンカレッジ経由のコリアンエアラインは混み合っていてタバコの煙とおそらく韓国製のカップ麺と赤ん坊のおしめの匂いとがむせ返るように機内に立ち込めていて、妙に安心な感じがした。

 もっとずっと後にクリスマスシーズンにシアトルからポートランドへとグレイハウンドバスで旅した時に車内には数人の若い学生と黒人ファミリーがほとんどでバスのなかにたちこめるオムツとホットドッグ、フ

もっとみる
フィルモア通信 New York  80's 雲の上は初めて見た。

フィルモア通信 New York 80's 雲の上は初めて見た。

 今日も陽はたかく、乾いた風が吹く。誰もいなくなったレストランの窓を開け、ぼくはテラスに出る。 

 鉢に植わった咲き零れるペチュニアの萎れた数輪を指先で摘む。こうすると残った花たちはまた息を吹き返して元気になる。風が匂うようだ。さっきまで昼食で満員だったレストランのダイニングルームを窓越しに見る。人影も無いテーブルや椅子に陽光が射して静かだ。

 あと二時間もすると夜の開店だ。オーブンにはロース

もっとみる