フィルモア通信 New York No10 牛ヒレ丸ごと1本
レンとピーター、そしてぼくらが働くシフトが組まれたある夜、最初の混み合う時間にアペタイザーを出し終わり、レンとピーターがメインディッシュの準備に忙しい間、ぼくはダウンステアーのプレップキッチンに降りて行き、昼の間にニーナが下拵えしておいた明日の予約のランチパーティーに出すビーフウェリントン用のテンダーロインを手に取った。
ビーフのことはあまり知らなかったし、テンダーロインはアメリカでも高価で口にしたことがなかった。ニーナは肉をパイで包むこの料理のためにそのテンダーロインをシーズニングし下焼きして冷ましていたのだった。すっかり冷めたら冷蔵庫にしまうようにとニーナは帰りがけにぼくに頼んでいたのだった。
冷めたビーフを持ち上げてみるとそれは重たく、いい匂いがした。胡椒と僅かにバターの香りもした。ぼくは大きなそのフィレ肉の細い方の端っこをナイフで削り食べてみた。口に入れると香ばしくクリスピーに焼けた表面と内側のしっかり火の入ったところの味が違った。
どうも試食するのにはこの端っこはウェルダンのところばかりなので、もう少し太い部分をと反対側のトルネードの部分を切ってみた。直径が二インチばかりの肉を薄く切って口に運ぶとそれは未だレアが残っていて僅かに血の匂いと自分の口の中を切った時のような鉄の味がした。
その時、アップステアーからピーターの呼び声を聞くと口を拭って二人の手助けにぼくは階上へと上がっていった。
メインディシュを手伝い、新たな前菜のオーダーを仕上げると、ぼくはまた肉のある階下へ降りた。そしてトルネードがくっ付いているフィレ本体のほうを切って見ると中はピンクで噛むとミルクの味が微かにした。口の中の何処からかセロリやにんじんを噛んで飲み込む時のような甘い香ばしさがした。
ニーナの塩加減は完璧だった。細いところも太いところにも過不足なく塩は行き渡って肉の香ばしさを引き出していた。
ぼくはあんまり薄く切ってばかりなのでちょっと厚い一切れを試そうとハーフインチのかたまり噛むと柔らかい肉はコーンの茹でたような風味があった。もっと噛んでいると、以前見学に行ったことがある9thアヴェニューのデ・ベラッガーミートカンパニーのエイジングルームに入った時のような、干し草の香るような匂いがした。
それまでには考えたこともなかったが、この肉を食べるアメリカ人はぼくと同じように味わうのだろうかと、またぼくはどうしてこれを旨いと思うのか不思議だった。だんだんと土地に慣れてきて親しみが味わいとなって来たのだと思った。
その夜、キッチンの上と下を何度となく往復したが、営業の終わる頃にはテンダーロインは巻きつけてあった紐を残してぼくの体内へ消えてしまっていた。ピーターがこのことをレンに話すとレンはぼくを見て「A whole file of Tenderloin !?」と声を上げぼくにお前はハッピーか、と訊いた。ぼくは Yes sir, I am very Happy! と答えた。