フィルモア通信 New York No8 レン アリソンとカレン ヒューパーツ
カレン・ヒューバーツ女史とレン・アリソン教授
ヒューバーツレストランはカレンとレンの二人がまだブルックリンの小さなアパートに住んでいた頃、自分たちの部屋にに友人たちを招きカレンの料理をレンがもてなして、アメリカ料理の変遷や歴史、地方料理の歴史やアメリカ文学史を語るという、英文法の大学教授らしい彼の料理に対するアプローチが文学や造形、絵画のアーティストに受け、だんだんと評判を呼びカレンの両親の援助もあってマンハッタンでレストランを開くことになったのだった。
ぼくがヒューバーツに通い始めたのはグラマシーパークのその店をオープンして二年目の頃だった。レンはレストランのオーナーシェフ、カレンは店のマダムで自身が小説家でもある彼女は若く知的に見えた。二人はともにユダヤ人で、初老のレンよりカレンは二十歳以上年下だった。カレンが文学を学ぶ大学の教授がレン・アリソンだった。
そしてカレンとレン、彼らの考える料理への共感が、客の新しい食への期待と、知の挑戦というインテリ達のその頃の風潮と見合っていて、ビジネス街のエキュゼクティヴやエスタブリッシュメントたちに受け入れられ始めたところだった。
しかし、二人とも料理のプロフェショナルな経験は無く、カレンは母親から受け継いだ料理好きで、レンは料理の文献を読むのが好きというだけだった。実際にはカレンの方が料理が出来たがレンの望みでキッチンのなかはレンがメニューと料理の味を取り仕切った。そのため当時のヒューバーツレストランにはレンのためにいろんな料理人が来ては去りを繰り返していた。
カレンの希望で若く才能のある女性も雇われてきた。その頃はまだ珍しいことだった。実際の料理の経験の無いシェフ・レンに対しては多くの料理人が彼と衝突して辞めていったが、自分の料理にオリジナリティーを創造し有名になるという野心を抱く若い料理人も集まり始めていた。その一人がピーター・ホフマンだった。
ぼくはヒューバーツに見学に通い初めてすぐにレンの料理のスキルの低さに気がついた。しかし彼に日本料理の基本をやってみせるとレンは、幾つか質問し直ぐにその理由と機能を理解した。東洋美術の鑑賞の方法で料理を理解したみたいだった。
レンはよくぼくに英語を勉強しろと言った。彼にはぼくの話す英語がわからないらしく、ピーターと三人でいるときは、ぼくが喋るとピーターに通訳を頼み、マサミは英語でしゃべっているよ、とピーターは言うのだった。三人並んでラインに立ち、ぼくは前菜と二人のバックアップ、ピーターはオーダーを読みながら野菜のソテーや付け合わせとソースの仕上げ、そして肉や魚を調理するレンの補佐をした。実質はピーターとぼくがハードなキッチンワークをこなしていた。
レンは度々ダイニングルームに客に呼ばれて話し込んだり突っ込まれたりして、時に意気揚々、時に消沈の表情でキッチンに戻ってきた。どんな時でもぼくらのラインワークに文句を言うことは無かった。
ある日、レンはぼくをミッドタウンの有名なル・バーナディンというフレンチレストランに連れて行ってくれた。テーブルに運ばれてくるその素晴らしい魚介の料理を味わいながら彼は、ぼくと自分とのコミュニケーションを何とか向上させようと考えたようだった。テーブルで食事しながら、あらかたのその料理についての感想だのレシピの推測などを述べあうと、お互いにもう話すことはなくなった。
ぼくらは黙りこくってコーヒーを啜り、なんとなくぼくはカレンの親しい友人でその頃しょっちゅうヒューバーツに食事に来ていたジェニファーのことを、「ジェニファーさん最近ぼく彼女見ない、どうして?」と尋ねると『彼女いま病院、ドクター彼女の〇〇診る」とレンは言う。ぼくは〇〇のところの単語が聞き取れず何度もレンに問うと、彼は大声で「彼女のVAGINA!」と大声で言った。周りのテーブルの人ほぼ全てと、給仕達が振り返り、ぼくらを見た。レンは険しい顔で、「マサミ、おまえは英語を勉強しなくてはならない」と告げた。