愛してるって名前をつけたくなることなんだな、きっと。
赤と青のニットの短いセーターを着た、たぶんご近所さんの犬🐩が、
飼い主と散歩しながら、こっちばかり振り返って見ている。
リードの先にちがう形のエネルギーを感じた飼い主さんは、
立ち止まろうとしたその犬を、軽くたしなめる。
目が合った。
飼い主さんではなくて。そのちいさな犬と。
ずっとこっちを向いたままぴたりと、立ち止まる。
足がアスファルトにくっついてしまったみたいに。
わたしも、なんとなく知らんふりはできなくてそのまま、一緒に
立ち止まる。
その眼って、挑むのでも甘えるのでもなくて。どちらかというと、
ねぎらっているように見える。
その犬になにをねぎらわれているのか、不明だけれど。
そういう風情だった。
そして、しぶしぶ去って行くのだが、(わたしではなく🐕がね!)
飼い主さんは動かない犬のリードを正しい方向に引っ張って。
犬にしてみたらちょっと引っ張られて。
曲がり角辺りまで、なんども振り返って最後には、なぜか慈悲の
眼差しをこっちに差し向けたまま、飼い主さんと共に去ってゆく。
こういうシチュエーションにすこし、既視感、デジャヴュがあった。
気が付くと犬たちと出会い頭で出会う時、みんな一様に同じ行動を
取ってくれる。
そのせいか、いろいろな犬たちの眼をみてしまうことになる。
犬と暮らしたこともないのに、すこし犬に好かれているみたいで
ぜんぜん、わるい気はしない。
こんなんも書いてましたそういえば。(よかったらちらっとどうぞ)
ある日、古い雑誌をペラペラめくっていたら。読んでいなかったみたいで
アクシデントのように、パリの犬特集のページをみつけた。
でもそこには<パリのぞうきん犬>ってタイトルがついていて。
あんまりやん。可哀そうだからせめて<パリのモップ犬>に頭の中で修正
して読む。(雑誌の中では、蔑称じゃなくて愛をこめて呼んでるよって
注釈がついています😊)
その写真には、ほんとうにモップのようにふさふさふわふわの毛むくじゃら
を身にまとって犬が写っていた。
その記事の中に、数々の犬を見てきた女の人が言う。
<かねてから、パリの犬はどうしてこんなにも可愛いのだろうと思っていました>
冒頭の言葉が、目に飛び込んできて。
アメリカ、イタリア、中国などでも、国によって犬の表情がぜんぜん、違う
らしい。
彼女曰く、
<愛されただけ、愛くるしくなってくる>
そういうものらしく。
記者の方も
<人間にかまわれるほど、野性が人間好みになってゆくことかもしれない>っていう考えを綴られていた。
そして、パリの犬のかわいらしさは、やっぱり愛の量の結果なんでしょうかって。
わたしは日ごろ犬だけには愛されている自負があったので、パリの犬だけ
やないでって、日本の犬もめっちゃ可愛いやんってひいき目よりで見つつ。
ふたたびページに視線を戻す。
マキシム。リタ。オーウェン。ピストゥ。
ルポ・・・。
犬のそれぞれの写真のキャプションに添えられている、彼らの名前を眺め
ながら。
生きている者、モノ、物は、やっぱり愛情に比例してゆくものなのかな
って思う。
名前をつけるって、愛情の証そのものだなって。
動物も、花も、ひとも。
時に失くしたもの、得られなかったものばかりに眼がいってしまうけれど。
やっぱり、愛された記憶だけは、しっかりとからだのどこかに刻んでおき
たいなと思う。
そして、唐突だけど。
あの犬たちの愛情もってつけられた名前をみていたら、いちばんはじめに
名前をつけてくれたひと。
わたしの場合は母だけれど。
そういうふうに、名前をつけてくれたひとのことは大切にしたいなって思った。
ニットを着せられていたあのちいさな犬と出会っただけなのに。
こんなところまでわたしの思いを、みえないリードでひっぱってきてくれたみたいで。
なんだか、ふいに遠吠えしたくなる気分の中秋の名月の夜でした。
ひとりきまま企画
じつはあいみょんさん ずっと知っていたのに聞いていなくて
初あいみょんさんなんです。 満月の夜なら♬です。
では、どうぞ。
今日もお付き合いいただきありがとうございました!
夕まぐれ 壜をのうつろに 放った名前
惜しみなく 去ってゆく 犬のまなこは