わたしひとりでは、気づけなかった言葉。
ことばはいつも身体のどのあたりから
生まれて来るのかわからない。
路地裏の猫が歩いているようなアスファルト
あたりに、もし文字が落ちていたら
とりあえず拾うだろう。
そのままコートのポケットの中にすんと
入れてまた歩き出す。
昔、子供の頃に友達のお母さんからもらった
キャンディをその場で食べられなくて、
とりあえずポケットに入れたときのように。
例えば、ぴちゃぴちゃにひしゃげた青と白の
しまもようのてらてらの包み紙が、
いつまでも忘れられないようなところって
いいことなのかどうなのかわからないけれど。
昨日見たんだよなあの言葉って。
まだ紙の新聞を取っているわたしは
どこかにあの切り抜きがあったはずだと
さがしていた。
思いがけず手帳の、6月あたりにはさんで
あった。
だから、ひとりじゃだめなんだって。
ひとりぽつんと、ぽつねんとここに
いたって、ことばなんかにはならない。
わたしが何かを言う時はきっとその
向こう側にはたくさんの人のことばが
混じっているはずなのだ。
じぶんひとりのことばなんて、たかが
しれている。
いつもそう思うから、わたしは誰かの
言葉を掴まえに行こうとして、
するりとかわされてしまうけど。
やっとみつけたその言葉の前でわたしは
立ち尽くす。
なにかを うまく いいあらわせないことが
あっても、
あわてず どうどうと していてください。
絵本『たいせつなわすれもの』森村泰昌より。
わたしがいつも好きで切り抜いているのは
言葉のコレクションをされている
鷲田清一さん。
「折々のことば」で紹介されていたのは
真夏の真っただ中だった。
火曜日だった。
黙ってても暑いその日、夏の火曜日と
書くだけで余計に熱く感じられて
炭酸水ばかり飲んでいたころだった。
この言葉への言葉の贈り物として
綴られている第一行目から好きだった。
あなたは他人をたやすく打ち負かすほど
豊かな言葉を持っていないかもしれない。
持っていないよ。
なかなかいつも意見が言えなくて、
かたまってしまうのが常だよと
かれこれ15年以上続いてますよと
つっこみながら。
でも夕陽を見た時、その美しさに声もでなく
なる経験をした。誰かに死なれた時の、
言葉にならない悲しみも知っている。
夕陽と誰かが死んだときのことを
いっしょに並べないでほしいと
思いながらも、この言葉には冒頭に引用で
❝でくくった
なにかを うまく いいあらわせないことが
あっても、
あわてず どうどうと していてください。
へとつながってゆく。
心強かった。
言葉にできないことの方が
生きていたら多いことを薄々感じて
いたから。
なにもかも言葉にできると思っちゃ
いけないと思いながら。
夕陽の美しさも、人がいなくなることの
からっぽもそのふたつをわたし知って
いるって心の中で繰り返しながら次の
言葉を待っていた。
それはなにより「ことばの おもさや こわさを
かみしめている」ということ。
『折々のことば』鷲田清一
わたしの言葉ってなんでできてるんだろう。
そう思いながらいま思う。
じぶんひとりじゃなくて、いつも誰かの
言葉がなければ、言葉を綴れないのかも
しれないって。
昔小さかった時のもらった飴玉の話。
そのぐちゃぐちゃになってしまった
飴玉が残像として、どこかじぶんの中に
居座り続けることが、もしかしたらじぶんに
とってのことばということなのかもしれない。
あのキャンディ 溶けてしまった キャンディを
溶かしてしまえなかった 記憶の中で ゆめをみて
今回はゆめのさんの作品を拝借して、
まつおさん企画に参加してみました。
すてきな企画をいつもありがとうございます。
画像はぱくたそさんから拝借しました。
ありがとうございます)
瓶詰めカラービーンズのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20180753185post-16692.html