僕はここにいるって、いつも言ってほしかった。
とにかく、静かであるってことはむずかしい、ね。って最近とみにおもう。
なにも計画通りに進んでいなくて、心だけが先走っていて。
ちょっと騒がしいんだと思う、こころのあたりが。
わたしのペースを思い出せって声がする。
そんなに騒音でなくても、道を歩けばなんかいろいろと耳に入ってくるし、それを耳の何処かでキャッチして、受け止めた後、ずしずしと音の足跡
みたいなものがにじりよってくる気がして、気が気でない。
つまり情報処理能力が欠如しているんだとおもう。
むかしっからのことだけど。
だからって、森にまよいこみたいわけじゃないんだけれど。
佐々木幹郎の詩の中で、<イーリー・サイレンス>ってことばを知った。
おそろしいほどの静寂の意味だそうで、その詩の中で森に生きている人が、この言葉、<イーリー・サイレンス>を耳元で囁かれるのだけれど。
ちょっとここに再現してみる。
無音の炎のように空に立ち上がる オークの木の枝の下
そっと耳元で ささやかれたのだ
ささやいた人は 水の匂いがして 足元ではシダの葉が
子猫の舌のように 用水路の水を飲んでいた。
囁いたひとからは<水の匂いがして>と、紡がれている。
部屋の中にいても。
騒がしくてこころがついていけなさそうな時には、こうやって詩を読んだりする。
って誰にも言っていないけど。
すると、さして静かな場所ではなくても、ここが、居心地のいいところのような気がして、じぶんのささやかなスペースを確保できるような。
この詩を読みながら、なんとなく、あの人のことを思い出す。
あのひとに、なにかを囁かれた時、なにの匂いがしたのかって。
どこかのなんとかっていうなまえのワインだったんだろうと思う。
ブルーのVネックのサマーセーターの中に、もぐりこんだ日。
他の匂いがしたかもしれないのに、思い出せない。
もぐりこんだことしか、思い出せなかった。
あの人に教えてもらった歌。
<呼吸すれば胸の中にて鳴る音あり、凩よりもさびしきその音>
石川啄木だった。
その歌をふとみていて、この歌にはとても静謐なものに触れた気がしてしまう。
静けさを破るのは、身体の内側から来る、まぎれもないじぶんじしんの
この音、心臓の音だけ。
肺を病んでいた彼の胸から発するものが、その静寂を断ち切る音だったと
したら。
これは、あの佐々木幹郎の詩のなかに登場していた
<イーリー・サイレンス>そのものかもしれないと。
あの恐ろしいほどの静寂のこと。
そして、
あの人がどうしてこの歌を好きだったのかを、辿ろうとしている。
あの日の、青いセーターの胸の中では確かに鼓動が聞こえていた。
彼にしか持ちえないそのリズムは、今も耳の中に残っているのに。
残っているのに、
ひたひたとさびしい。と、あらためて気づく、啄木めいた秋の夜です。
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今日の
は
♫山崎まさよしさんの 僕はここにいるです。
どうぞお聞きくださいませ♬
かなしみに 番号つけて ひきだしの中
ひたひたと さびしい夜は 雑踏にまぎれて