琴線に触れたんじゃなくて、ふるえたんだ。ふるえると無性に書きたくなった。
満月の一日前ぐらいの月をみながら家路を急ぐ。
たくさんの家が立ち並んでいるのを、見上げながらみんな
ここに帰ってくる場所があるってことを、とりまくいろいろな
景色に思いを馳せてぽちぽちと歩く。
夜はだれかとどこかですれちがう度、胸元あたりが光っている。
ぽつんとそのひとだけを照らすスマホの灯り。
そのあかりはなにも導かないかもしれないけれど、
なくてはならない光なんだなって思ってみたり。
お隣の家が壁の塗り替えをしているので、家をまるごと
足場とネットがくるんでる。
ざわざわとネットが風にゆれている。
この間、新聞の書評欄をのぞいていたら、
『あるノルウェー大工の日記』という本に出逢った。
ノルウェーの大工さんが、築100年を超える屋根裏の改築をすすめてゆく物語らしく。
そういうモチーフのものははじめてだったので、とても興味深かった。
<ダン、タム、ビヨーン・オーラブ、トマス、ヨハネス、グスタウ、
ユッカ、ペッター>
これは、その大工さんが自分自身の一部と思っている愛する仲間達の名前。
この名前を一緒に働いた証に屋根裏の壁や屋根に残しているらしい。
そんな温かい出来事ってあるんだなってそんな想いに触れて、ちょっと
じんとした。
屋根裏という場所は、いつも使っている人の心地よさばかりがクローズ
アップされるけれど。
その屋根裏を作っていた人々の思いが、見えない場所に宿っているんだ
なって思ったら、胸がそわそわしてくるし、
職人さんの呼吸までもが聞こえてくる感じに駆られた。
なにかをみんなでものをつくるって、ほんとうはこういうことなのかもしれない。
わたしはこの11月様々なことに翻弄されて、あまり自分自身がコントロールできていなくて、あまり書けなくてもうnoteやめてしまおうかなって思ったり、そんな思いが正直行ったり来たりしていた。
信頼しているヒョウガさんに、ゼロちゃん(と呼ばれてます)いつもひとりで頑張って来たからゼロちゃんたぶん、みんなとこうして温かく関わるようになって戸惑っているんだよって、声をかけてくれました。
まったくもってその通りで、言い当てられて。いつもヒョウガさんはわたしの困っていることが何かを言い当てられる人で、すごいなって思っていたある日。
まだ気持ちの整理がつかない時、こんな素敵な記事に出会った。
はじめてかもしれなかった。
記事を泣きながら読ませて頂いて、じぶんの涙の意味もわからないまま。
揺さぶられた。揺さぶられすぎてどうかなってしまうかと思うほど。
そして琴線に触れるって言葉が浮かんできて。
これは琴線が触れるぐらいじゃ、追いついていない。
琴線がふるえてるんだって気づいた。
そうしたら、わたしはそれから少し時間は経っていたけれど。
こんな記事を書いてしまった。
この記事を書いた時は嶋津さんの記事を貼り付けることなく書いたけれど。
こうやって、noteになにかを書くっていうことは、うまく言えないけれど。
一人で書いていないような気がする時がある。
じぶんひとりではなくて、誰かの記事にふるえが止まらなくなって、思わず
じぶんの中から言葉が引き出されてしまうことがあるんだって。
だから、『あるノルウェーの大工の日記』の屋根裏部屋の名前のように。
noteのじぶんの文章は、いろいろな人のやさしさや熱い想いに触れた時の
ふるえの証なんだなって正直思う。
思いっていうのは、やっぱり細部に息づいているものなのだと気づかされる。
こんな形で、嶋津さんのnoteを紹介してしまってすみません。
そして嶋津さん、ほんとうにすてきな記事を書いていただきありがとうございました。
嶋津さんのやさしさに触れて、ほんとうのやさしさの意味に気づきはじめているこの頃です。
はかなさを みつめるまなこ ささやかすぎて
あめつちに 種がこぼれる 祈りのように
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊