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「機動戦士ガンダム00」脱構築的な革新作

2007年から放送され、大人気を博した「機動戦士ガンダム00」
今回は00の魅力を脱構築的な観点から再評価していく。

「機動戦士ガンダム00(2007~)」

評価へ移る前に脱構築について解説する。

脱構築とは20世紀フランスの哲学者であるジャック・デリダの主要概念。
具体的には、古代ギリシャ発祥の西洋哲学において前提とされてきたさまざまな二項対立を疑い、その対立を成立せしめている基盤そのものを問うという方法が「脱構築」と呼ばれる。実際、批評の用語として「脱構築」という言葉が用いられる際は、そのほとんどはある概念や物事の見方に対する異議申し立てや問い直しといった程度の意味で用いられている。

artscapeから引用・要約[1]

つまり、「A」と「B」というような優劣が存在する二項対立関係において、固定観念となっている対立関係を批判し、新たな意義や価値を見出すことである。これを踏まえ00の魅力について述べていく。

勧善懲悪で寓話のような物語

00は他のガンダムシリーズと比べて、物語が勧善懲悪に傾いている点が特徴だ。本作を象徴する「武力による紛争根絶」というテーマだが、当然大きな矛盾を孕んでいる。
有史以来、紛争などの人間同士の争いは利害の不一致から生じてきた。だが、ソレスタルビーイングは利害を超越し、紛争を行う国家やそれを幇助する企業などに対して武力介入を行う。
利益を顧みず世界に平和を齎そうとするその姿は、まさしく正義の化身に近い。これはガンダムシリーズではとても異色だ。

「ソレスタルビーイング」のロゴ

近似する作品として「機動戦記ガンダムW」がよく挙げられる。
主人公サイドが4~5人のチームを組んでいる点、そして完全平和主義というキーワードも、世界を平定に導く武力による紛争根絶と似通っている。
一見、類似作品に捉えられがちだが、その実全く違う。

「機動戦記ガンダムW(1995)」

ガンダムWの物語の骨子は宇宙世紀(1st~逆シャアまで)のオマージュである。それに加え、美少年たちにチームを結成させる当時の流行を取り入れただけだ。完全平和主義もテーマというより、物語にオチをつけるための舞台装置に近い。内容も美少年5人の活劇がメインで純粋なエンタメに近い作風となっている。
確かに、個々の要素を抽出すれば類似作品に捉えることもできる。
だが、00は紛争根絶=平和に物語の結末以上の強いメッセージ性が存在する。その点から、00とガンダムWは作品性を全く異にするのだ。

「勇者司令ダグオン(1996)」
※当時は美少年たちがチームを組むのが流行していた

ガンダムシリーズは単純な勧善懲悪ではない”リアルさ”が売りの一つだ。
宇宙世紀であれば、宇宙移民と地球で暮らす人々の間で争いが起きる。
しかし、その争いは主人公サイドを善と決めつけず、敵の側にも正義が存在するように描写される。このように、勧善懲悪なヒーロー物ではない部分がガンダムシリーズが当時、他作品と一線を画した”リアルロボット”と評された理由だ。

「機動戦士ガンダム(1979)」

では00はどうだろう?
戦争や紛争は常々、善と善もしくは悪と悪のぶつかり合いと評される。
つまり、勧善懲悪な構図は成立し得ない。それぞれの国家や組織に正義があり、一方から見れば相手を悪と見做し、その相対性から絶対的な善や悪は存在しない。
従来のガンダムシリーズでは、この善と善の部分に主人公サイドと敵サイトを当てはめていた。だが、00では善と善を超越した第3勢力として主人公サイドが描かれる。そして、ソレスタルビーイングは来るべき対話に向け、世界に変革を促す。宗教やイデオロギー、利害を超えた、その名の通り天上の存在として振る舞うのだ。
劇場版ではついにELSという異種知性体も登場した。これまで人間同士の争いの是非や、双方の正義をリアルに描いてきたガンダムシリーズでは異例中の異例である。

ガンダムシリーズでは異例の純然たる異星人「ELS」

00ではガンダムシリーズ恒例の国家間紛争に加え、超越者たるソレスタルビーイングの影響により世界が統合されていく様が描かれる。
これは、善と善の衝突を描いた既存のガンダムシリーズの硬直化した概念を打破する革新的なポイントだ。21世紀の現在、リアルロボット物として現実に近い形でイデオロギー同士の衝突を描写するだけでは陳腐なのだ。
争いの火種を抱えたまま人類は宇宙進出してはならない、人々は分かり合えるなど教訓的なメッセージを残した00という作品は、寓話的で正義と正義という対立を超越したガンダムシリーズでの脱構築だ。

ガンダムという象徴についての言及

00の作中設定ではGNドライヴ[2]搭載機は全てガンダムである。
ソレスタルビーイング所属で名称に「ガンダム」を冠するMSは当然ながら、地球連邦やアロウズ所属のガンダムとは似つかない機体もGNドライヴを搭載していればガンダムなのだ。
このように作中設定からメタフィクションな視点で、視聴者がガンダムかそうでないかを区別することはよくある。

「ガンダムエクシア」
「GN-X」[3] 

しかし、00の興味深いところは作中の登場人物がガンダムかどうかを重要視する点だ。これまで、道具や兵器としてガンダムが重宝されたり、脅威として恐れられることは度々あった。だが、ガンダムが精神的な象徴として言及されたのは本作が初である。
主人公の「刹那・F・セイエイ」は幼少期のとある経験からガンダムを信奉している。

「刹那・F・セイエイ」

刹那は幼少期、少年兵として戦場へ駆り出されていた。洗脳され、自らの母までも手にかけた悲惨な状況で、この世界に神はいないと信じていた。
ある時、戦場で絶体絶命の窮地をソレスタルビーイング所属のガンダムに救われる。現れたガンダムの神々しい姿に刹那は目を奪われた…

刹那を救った「0ガンダム」※第1話冒頭

刹那はガンダムマイスターとなった後、神格化しているガンダムと自身を同一化し、「俺がガンダムだ」と自称するようになる。

「俺がガンダムだ」※第2話より

時には、イオリア計画を強引に進めるチームトリニティのやり方に異を唱え、「貴様はガンダムではない」と断ずることもあった。

「違う!貴様はガンダムではない」※第19話より

リアルロボットに分類され、兵器としての側面が強調されるガンダムだが、このように偶像化されるのは非常に珍しい。
メタフィクションな視点でのガンダムという区別だけでなく、主人公の生い立ちや精神性も伴ってのガンダムなのだ。
00はワンオフの主役機と量産機というパワーバランスの優劣を超えて、作品全体の象徴として「ガンダム」に新たな価値観を見出した点も非常に脱構築的だ。

OPで象徴的に描かれるエクシア

優劣ではないニュータイプ論

00では「イノベイター」と呼ばれる進化した人類が登場する。
宇宙世紀のニュータイプやコズミック・イラのコーディネーターに相当する存在だ。しかし、イノベイターは従来のガンダムシリーズの新人類とは大きく異なる。それは後天的に普通の人間がイノベイターへと進化する可能性がある点だ。

純粋種のイノベイター「デカルト・シャーマン」

これまで、ガンダムシリーズで登場する新人類は先天的な素質として描かれてきた。生まれながらに遺伝子調整されたコーディネーターはもちろん、宇宙世紀でのニュータイプも、人類が生活圏を宇宙へ広げた結果の進化とされている。先天的に優れた新人類と旧人類の軋轢、これはガンダムシリーズでも大きなテーマの一つだった。

ガンダムSEED作中のコーディネーター「ジョージ・グレン」

しかし、00のイノベイターは一定量のGN粒子を浴びることで、誰でも進化できる可能性を秘めている。先天的な素養で選ばし者というニュータイプ論から、後天的に誰でも優れた存在へ進化し得る、優劣ではないニュータイプ論へ転換したのは画期的だ。
したがって、本作は旧来のシリーズで描かれた新旧人類の対立構造から脱している。00においては、イノベイター(ニュータイプ)はいずれ誰もが到達可能な存在なのだ。これはニュータイプ論の脱構築と言える[4]

最後に

機動戦士ガンダム00はシリーズ屈指の名作である。
ガンダムシリーズとしての要所を押さえながらも、随所で革新的な点が見られる意欲作だ。ガンダムという作品を構成する多くの要素を分解そして再構成し、固定観念から脱構築させた21世紀の新たなガンダム像がこの作品にはある。

残念なことに00以降、アナザーガンダムの進化は止まってしまった。
機動戦士ガンダムAGE、鉄血のオルフェンズ、そして最新作の水星の魔女、これらは21世紀の1stを目指したガンダムSEEDや革新的な00と比較すると、意気込みやテーマ性の面で劣っていて、ただの売れ線を狙った商業的作品の趣が強い。00は放送から17周年を迎える現在になっても、作画、演出、テーマ性の面で後発のシリーズ作品に全く引けを取らない。進化を続けるガンダムシリーズの未だトップランナーなのだ。

[1]

[2]GUNDAM NUCLEUS DRIVEの略

[3]厳密には疑似GNドライヴ搭載機

[4]外伝作品や10周年イベントではイノベイターと旧人類の争いがあったことが設定として語られているが、本記事では映像作品のみを正史として扱っている。

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