アナログ派の愉しみ/本◎サルトル著『いまこそ、希望を』

老いたる哲学者が
静かな絶望の先に見たものは


まさか、とつい声を洩らしてしまった。たまたま立ち寄った書店の文庫コーナーに、ジャン=ポール・サルトルの『いまこそ、希望を』が平積みされていたからだ。およそ40年ぶりの再会である。

 
1980年にサルトルが74歳で世を去って間もなく、最後のインタヴュー記録として日本語訳が3回にわたって連載された『朝日ジャーナル』を、大学生だったわたしも駅売店で毎号気負い込んで買い求めたものだ。午後の講義に向かう西武新宿線の車内で吊り革につかまり、むさぼり読んだことを思い出す。そして、その内容をめぐって友人たちと口角泡飛ばしながら語り合ったことも。まあ、当時のわれわれがどこまで理解していたかわからない。だとしても、20世紀フランスが世界に送りだした「哲学者」の存在を仰ぎ見て、「実存は本質に先行する」というそのテーゼを神託のように受け止めてきた者にとっては、ひとつの時代の終焉を目の当たりにする興奮があったのだ。

 
改めて上梓された文庫版の翻訳者・海老坂武の解説によると、晩年のサルトルはほぼ失明状態のほか、高血圧、記憶障害、歯痛、尿失禁、めまい、糖尿、脳梗塞、歩行困難などなど、あたかも病気のデパートのようなありさまだったらしい。こうした体調のもとで、当時、秘書をつとめていたベニイ・レヴィの問いに応える形でなされたのが、このインタヴューだという。だから、質問者はしきりに「老いの経験」についても関心を向けるが、サルトルは「みなわたしを年寄り扱いする。わたしは屁とも思わないがね。なぜかって? 年寄りは年寄りだということを、自分では決して感じないからだ」と取り合わない。

 
そのうえで、サルトルは自身が歩んできた長い足跡を振り返りながら、これから人間が未来に対して目的を設定し、希望を持って生きていく根拠、すなわち新たな倫理学の構築をめざして議論を展開していく。キリスト教、社会主義、ヒューマニズム、左翼、暴力革命、さらには、すべての人類は同じ一人の母親から生まれたという関係にもとづく友愛……と、モチーフは次々と変奏されていくが、それらはレヴィの徹底した追及を前にして(そのあまりの遠慮のなさに、あとでこの記事を読んだボーヴォワールが激怒したという)、ことごとく行きづまり、口ごもってしまう。当然、体調の影響もあったろう、インタヴューが終盤へ進むにつれていっそう混沌としていくのだ。かくて、もう時間切れになろうとしたとき、サルトルはふいに老いを否定した前言を翻して、こんなふうに告げた。

 
「小さな革命は起こすが、人間的な目的がなく、人間にかかわる何かしらがない。あるのは混乱だけじゃないか。といったように事態は考えられるかもしれない。こうした考えは、絶えず人を誘惑しにくる。ことに、こちらが年をとっていて、まあいずれにせよ、自分は長くて五年で死ぬだろう、といったふうに考えられるばあいには――じつはわたしは一〇年と思っているのだが、五年かもしれないな。とにかく、世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界のなかで死のうとしている老人の、静かな絶望さ。だが、まさしくね、わたしはこれに抵抗し、自分ではわかってるのだが、希望のなかで死んでいくだろう。ただ、この希望、これを根拠付けなければね」

 
いまこの年齢に達したわたしは胸が震えるほどの感動を覚えるのだ。「哲学者」のかつての研ぎ澄まされた舌鋒からほど遠く、大学生の時分に読んだときにはただの老人のたどたどしい繰り言にしか思えなかった、この発言に――。

 
つまりは、ひとは最後の希望を自己の外側にある理念などに託せやしない、みずから絶望と苦痛を負って生きてきた生活のなかにこそ見出すべきということだろう。サルトルがもし、老いと死に対してより肯定的な視点を持てたなら、そこに新たな倫理学の可能性が開けたのではないかと思うのだが。
 

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