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図書館の本をすべて読みたかったあの子。

先日、少し暇をとって、ひさしぶりに実家に帰った。家族、友人、先生など、ご無沙汰していた縁に水やりする忙しい数日が過ぎ去ると、すぐに時間に余裕ができた。散歩でもしようかと外にでると、懐かしい公園や緑道、マクドナルドが私の胸をしめつけた。ノスタルジックな気持ちのまま一度家に戻り、自転車を用意すると、私は秘密の花園に向かった。隣町にある図書館である。家の前の急な坂道を駆け下り、洋々と流れる大河を渡り、コスモスが満開に咲いている川辺をひたすらに走り続けると、その建物が現れた。大屋根の平屋で、ドーリア式建築のような屈強な柱が表を飾るその建物は、地面にどっしりと構えた大木のような静謐な生命力を帯びていて、私をどこか神聖な気持ちにさせた。


中に入ると、柔らかい秋の夕陽がガラスの天窓からふんだんに降り注ぎ、ニスでツヤツヤと輝いている木の材質を暖かく照らしていた。高い書棚が極端に少なく、胸元くらいの高さの書棚がずらりと並ぶこの図書館は、開放感があって、まるで教会にいるような気持ちにさせる。私は中央右手の、一般書架よりもさらに背の低い絵本のコーナーに進んだ。小学生の頃、このコーナーは私の全世界だった。館内に入ると、一目散にここやってきては、読みたかった絵本が返却されているかを確認した。お気に入りの絵本は、何度も何度も読み返しては、その世界に没頭した。私は館内の絵本をほぼすべて読み倒し、どの絵本がどの位置に置いてあるのかということまで把握して、この世界の主のような気になっていた。


ある時、私はいつものように絵本のコーナーの読書机で本を読んでいたのだが、ふいにアニメ映画が見たくなった。そこで、図書館の左手、つまり反対のコーナーにある視聴覚スペースへ移動するために、図書館の中央に広がっている一般書コーナーを通ることにした。そこは、絵本の書架よりも背が高く、当時の私の背からすると、見上げるような高さだった。だから、絵本のコーナーから一般書のコーナーに入ることは、広々とした原っぱから鬱蒼とした森に分け入って行くような感覚があった。
森はたちまちのうちに私を飲み込んだ。木々の間の小道を歩いていると、私は身震いするのを感じた。まさに井の中の蛙、大海を知らず。小国の王を気取っていた私であったが、隣国の果てしなき空間に圧倒された。子供ながらに私は、書架に積まれている本の数のみならず、それら一つ一つの本が放っている深淵かつ膨大な魔力に圧倒されていたのだと思う。試しに一冊、手に取ってみると、その重厚さは海の底から拾い上げた苔まみれの秘宝のようだった。中を開けば、小さな、見たこともない字が整然と並んでおり、私はひらがなだけを追っていくだけで精一杯だった。

私は畏怖の念を覚えた。ここにある本をすべて読み切るのには一体どれだけの月日が必要なのだろうかと考えたからだ。まだ今は読めない漢字が沢山ある。まずは漢字を覚えることに時間がかかるだろう。その上で、一週間に一冊のペースで本を読んだとしても、目の前にある書棚の一段すら読み終わらない。そもそも、この図書館の本をすべて読み終えるのと、自分の命が尽きるのでは、どちらが先なのだろうか。そう考えると、私は図書館にある本の中で、いくつかの本の内容を知らないまま死んでしまうことが、何よりも恐ろしいことだと感じた。死ぬことが怖くなったのだ。私は恐れをなして森から引き返した。原っぱは変わらないままの姿で穏やかに私を迎え入れた。でも私の心は、もうその世界に居場所を見いだせなくなっていた。


私は絵本のコーナーから、かつては森だったその場所へ入って行った。今では森というよりも、人間の手が加えられた庭園のようである。私は庭園を一巡りし、テラス席に腰を下ろした。あの頃の私は、非常に貪欲で、かつ、とても繊細だったのかもしれない。全てのものを知り尽くしたいという支配欲と知識欲が混在した、野生的で、でもどこか神秘的な生き物だった。今の私は、その生き物と直線上にあると考えるのが普通だと思うが、私はどこかその存在を「消えたもの」として扱いたくなるときがある。あの私は、人間というよりも、神聖で、何か超越したところがあった気がするのだ。ではあの子は一体どこに消えたのか。私はどうも、この図書館にあの子がずっと隠れているような気がしてならない。もちろんそれは私だけではないだろう。図書館は、全ての人にとっての「あの子」の永久の遊び場なのではないだろうか。


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