無い物ねだりと完全性
人は無い物ねだり
親がいない人は親を欲しがる
子どもがいない人は子どももを欲しがる
権力のない人は権力を羨む
仕事ができない人はできる人を羨む
仕事ができる人はしていない人を羨む
全員が全員じゃないけれど、そんな世の中
完璧を求める人が多いなって最近思う
○○を理解して欲しい、好きになって欲しい、嫌わないで欲しいetc.
この前に(みんなに)って言葉が潜んでたりする。
それは、とてもすごいことだと思う
だから、疲れて病む人が多いのかななんて最近思う
私は万人から理解されることも、好かれることも諦めた人間だから
もちろんこういう障害があるよとか、知って欲しいけれど、知ってもその障害の特性を受け入れられない人もいると思う
究極な話それって、みんなに理解されたいとか、性格を存在を理解して生きていることを認めて欲しい
ってことなんじゃないかなって思う
多様性を受け入れることは、受け入れてもらうだけではなく、どうして受け入れてもらえないのか相手の心に寄り添うことなんじゃないかな?
なんて思うこともある
万人に理解されることを諦めた私からしたら、万人に理解されようともがいている人は、忍耐力も行動力も人を信じる力もすごくあって、実はすごい人なんじゃないかって可能性を感じる
私はそれに疲れたし、本当に仲良い人や夫とか身近な人に理解されてたり、真実を知ってもらったりしてたら、それでいいって考えるようになった
それで疾病が回復したかといったら、頭を捻る
でも完璧主義から少し抜けられたら、視野が広がったり、心が広くなった気がする
自己申告だけれど
『認めてくれない=アンチ、心が狭い』
とは限らない
合わせようとしたけれど、どうしても、その特性と相性が合わないだけかもしれない
『認めてくれる=優しい』
とも限らない
自分より立場の弱い人を見て、安心しているだけかもしれない
理解してあげられる自分に酔っているだけかもしれない
優しくするより、傷付けないように最低限の接触しかしない方が、実は色々考えてたりして
考え過ぎて、それでも理解できない自分の思考に、もがいているかもしれない
まぁ、本当のところは、分からないけれど
こんなに人がいるのだから、色々な人がいて考えがあって、好き嫌いがあるのが当たり前のような気がする
理解してもらいたい側も、理解できない側に歩みよったら変わるかもしれない
というか、理解して欲しい人が理解できない人のことを批判するのも、多様性を潰しているような、その人を否定しているようなそんな気もする
まとまらなくて、あっちこちいった文になってしまったが、みんなに理解されたいとか、みんなに好かれたいとか、すごくエネルギー使うから、たまに認めてくれる人がいたりしたら、ラッキーくらいに生きたらもっと楽に生きられるんじゃないかなぁと思う
求めた分、他人のことも理解してみようとすること、それが多様性を受け入れる本質の1つなのかもしれない