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無知

著者 ミラン・クンデラ
訳 西永 良成
出版 集英社 2001年3月31日 第1刷

1968年のチェコスロバキアにおける「プラハの春」がソ連軍の介入によって崩壊し、クンデラの作品は国内で全て発禁となり、1975年にフランスへ亡命した。
1989年の「ビロード革命」後もフランスに残り続けたクンデラにとって、避けて通れないテーマ「亡命」後の人生。

当たり前だが、誰もが生まれ育った「故郷」への郷愁を持っている。ハヴェルやドプチェクの著書を少しだけ読んだ後だったのもあり、クンデラの計り知れない故郷への想いのようなものを冒頭から感じずにはいられなかった。

これまで読んできたクンデラ作品はプラハの春前後がテーマであったが、本書は、ビロード革命後がテーマとされている。

あらすじ

若く魅力的な女性、イレナはフランス・パリから、初老の獣医ヨゼフはデンマークからそれぞれに20年ぶりに亡命先から故郷へと向かう。ふたりを待ち受けていた残酷な故郷での物語。

感想

 初老の獣医のヨゼフと誰かが被る。
誰だろうと、思い巡らせながら、本棚をぼんやり眺めていたら、クッツェー著『恥辱』が目に止まった。『恥辱』に登場する主人公、元大学教授のデビッドだ。情熱的ではあっても、冷静さを失わないヨゼフとは真逆に、自分が見えておらず、転落してゆくイタイ男、デビッド。
何が共通しているのだろうか…?
年齢や風貌ではなく、もっと根源的な部分で共通しているのだ。

そんな俺の感覚的な疑問は、訳者の解説で少し解決された。

人間は何も知らない存在であり、無知こそが人間の根源的な状況である。
『無知』ミラン・クンデラ 集英社 訳者の解説より p213

クンデラは、この一文をタイトルに添えて訳者、西永良成に渡した。
そうか、ある意味で、クッツェーの産み落とした『恥辱』のデビッドは、「無知」なのだ。
ヨゼフとデビッドは明らかに何もかもが異なるが、この点において、酷似しているように俺は思えてならない。
また、もうふたつ、これら両作品には、とても大切な共通テーマが根底にある。

・「現実」とどう向き合うか?
・カフカ的不条理


現実と序盤向き合えなかった『恥辱』のデビッドは娘とのある事件を境にある意味で、現実と向き合った結果、それは、大学教授という社会的地位のある人生から、カフカ『審判』のヨーゼフ・Kが最後の時を迎えて言ったように「犬のように」な転落した人生を生きる。
事件の前後で置かれた状況が変わってしまう。
※作中の事件の背景にはアパルトヘイト廃止後の支配する者とされる者の逆転が描かれている。

 『無知』のヨゼフやイレナも、プラハの春を境に、そして、ビロード革命を境に置かれた状況が大きく変わる。「帰還」によってさまざまな現実を突きつけられる。そして、目の当たりにせざるを得ない「大いなる帰還」をした現実の故郷におけるふたりは不条理に満ちている。

共産主義の警察は亡命者に宛てられた手紙を監視していた。だから彼らは、手紙を書くことを怖れたのだろうか?彼は年代を注意して見た。最後のふたつの埋葬は1989年以降のものだった。ということは、彼らが手紙を書かなかったのは用心のためではなかったのだ。真実はもっと悪いものだった。彼らにとって、彼はもはや存在していなかったのだ。
『無知』ミラン・クンデラ 集英社 p60
「最悪なのは、わたしが何も知らない事柄や人たちについて彼女たちがしゃべること。こんなに時間が経ったあとでは、彼女たちの世界がわたしの頭から蒸発してしまっているのを理解したがらなかったの。
中略
彼女たちのほうはわたしがどんな女になったかなんて関心がなかったんだもの。
中略」
『無知』ミラン・クンデラ 集英社 p178

訳者の解説について

また、訳者西永良成の解説がとても素晴らしい。その解説を読んでの余韻が長く残っていた。
サルトルにとっての無知とクンデラにとっての無知の定義の違いを彼らの思想から考察されており、本文よりも、むしろ解説を気に入った傾向もある。
「深く絶望したとしても『希望を作り出さなければならない』」としたサルトルと、「そうした絶望を『実存の未知の領域』とし喜劇を書いた」クンデラ
と、訳者西永氏は解説している。
たしかに東側の人々にとってプラハの春までソ連を擁護していたサルトルは自己欺瞞や責任の拒否をしていると見られるかもしれない。

終わりに

 俺がもしも彼らのように20年という期間、故郷を離れていて、全てが様変わりしていたら、どうするだろうか?きっと、俺は幻想になってしまった20年前の故郷を愛し、ただその思い出の中で、希望を見出そうとするだろう。生活の基盤のある土地へ戻りながら。

クンデラの悲痛な慕情を感じた。

個人的に、10年ぶりに兵庫から神奈川へ戻り、生活の拠点も故郷にある。昔とあまり変わらぬ故郷に戻ってきて、無意識に、ほっとできることの幸せに感謝したい。

ーあなた、ボヘミアに義理はないの?
ーわたしは完全に自由な人間なんだ」
彼はきっぱりとそう言ったのだが、そこにある種の憂愁がまじっているのを彼女は見逃さなかった。
『無知』ミラン・クンデラ 集英社 p55
セックスしながら、ときどきヨゼフはこっそりと腕時計を見る。まだ二時間ある、まだ一時間半ある。この愛の午後は目もくらむほどだ。おれは何ひとつ、どんな身振りも、どんな言葉も失いたくない。だが、どうしても終わりが近づいてくる。だから、おれは消えてなくなる時間を見張っていなければならない。
『無知』ミラン・クンデラ 集英社 p197


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