はじめに
二〇二二年九月十七日から、一日一篇須賀敦子 というハッシュタグをつけて、僕は毎日須賀敦子さんの全集を一篇ずつ、(途中二週間ほど小休止を挟みつつ)読んでいる。現在は、須賀敦子全集第六巻に入った。
第六巻は主に、須賀敦子さんのイタリア文学論である。
僕にとってはとても難しそうなタイトルだが、須賀敦子さんはとても丁寧にわかりやすく書かれており、非常に興味を持って読めている。
また、カトリックの信徒でもあり、中世の宗教詩が聖歌の本にあったものと同じであったりすると勉強にもなっている。
イタリア文学論は主に以下のように構成されている。
ナタリア・ギンズブルグ論
イタリア中世詩論
イタリア現代詩論
文学史をめぐって
書評
この中から、イタリア中世詩論と現代詩論を二回に分けてnoteに自分用として残しておくことにした。
ヤコポーネの時代とそのあとの聖歌〜歌劇
ヤコポーネ・ダ・トーディ(1230年 - 1306年 )───多くのラウデ(讃歌)を書き中世イタリアでの重要な宗教文学を残した神秘思想家。
若くして妻を亡くしたあと、フランシスコ会精神派に所属したが教皇ケレスティヌス5世とボニファティウス8世の批判を疑われ破門、投獄された。
教皇亡き後、破門は解かれ、生まれ故郷に帰される。その三年後、帰天。
中世の画家パオロ・ウッチェッロが『福者ヤコポーネ・ダ・トーディ』という肖像画を残している。
ヤコポーネの名を不朽にしたラウデ、Donna de Paradisoは完全な対話形式で無駄のない生き生きとした描写と感情表現の豊かさが滲み出ている。
十三世紀前後はまだラテン語の讃歌が多くある中、イタリア語で書くことによって庶民にも受け入れられたのだろう。
フランシスコ会の美しいラテン語聖歌Stabat mater dolorosaの詩は作者不明だがヤコポーネが候補に挙げられてもいる。
中世の民衆のための音楽や詩
美しいファルセットのStabat Mater───十七世紀末まではカストラートたちが歌っていたのだろうか。教会聖歌隊は男性のみであった時代、十六世紀末にローマで一般化したようだ。映画『カストラート』でも有名なファルネッリなどがいる。彼のような大スターになれるのはほんのひとにぎりでしかなく、少年たちへの去勢の過酷な手術、失敗による死亡、後遺症などが多いにもかかわらず、貧困にあえぐ民衆の家庭では、息子をカストラートに、といった親たちがあとをたたなかったようだ。その後、十九世紀末に人道的見地から英明で知られた時のローマ教皇レオ十三世がこれを禁止させた。
───話をヤコポーネに戻そう。彼の生きた十三世紀〜十四世紀には、まだオペラ(十六世紀末)やカストラートなどはなかったかもしれない。民衆に寄り添うことを徹底しようとした彼はのちに神秘思想家と呼ばれる。
宗教詩ラウデの発展について
ところで中世イタリアの宗教詩とプロヴァンスは少し繋がりがあるようだ。フランス、プロヴァンスあたりにルーツを持つアッシジのフランチェスコ、ヤコポーネ・ダ・トーディらのラウデ。
須賀敦子さんは、アッシジのフランチェスコ「太陽の讃歌」からヤコポーネに至るまでの十二世紀〜十三世紀における宗教詩をみることで十三世紀イタリアの宗教詩発展を考察された。
※須賀敦子全集第六巻収録『宗教詩ラウデの発展について』
ヤコポーネは、民衆の踊りの曲の形式のひとつだったバッラータ形式になぞらえていくようにラテン語ではなくイタリア語でラウデを作っていく。
僕はこの詩に疾走感と人間の神秘愛のようなものを感じた。
ダンテ は「高貴」なカンツォーネ形式を採用することで「文学」として残したが、ヤコポーネは「民衆」の道として宗教詩を残すべく、庶民と宗教を結びつけるためのバッラータ=ラウデ形式を採用しはじめたのかもしれない。しかし、ヤコポーネは民衆とともにありたいという激しい思い込みから後継者を持たず、詩もラウデ形式からどんどんと外れて人工的なものになっていく。
トゥルバドゥールから『神曲』まで「愛」の概念の変遷
須賀さんは、こうしたことを踏まえて、次に、ダンテ『神曲』に至るまでの「愛」の概念の変遷を詩から深く考察されている。
中世騎士道的な愛の詩トゥルバドゥールが流行っていた。粗野な愛の詩から文学的なレトリックを重視していくようになり、やがてダンテの『神曲』のようにキリスト教のアレゴリー的なものへと変わっていった。と、解説されていた。
こうして私的なものから公へと愛の概念が移行する様を、ダンテはウェルギリウスからベアトリーチェへの移行という形で提示している。
自己中心的な愛から宇宙的な拡がりのある愛へと、変わって行く。
ダンテによって到達された、詩と詩学の完成により、「愛」の概念が「永遠のダイナミズム」を獲得した、と須賀さんは考えると同時に、トゥルバドゥールの「満たされることのない愛」との類似を見出してもいるようだ。
いつの時代も、何かしらのカタチとしてなし得なかった愛は、否応なしに美化していく。愛──郷土、国家──というカタチを偽って、文明が進めば進むほど残虐化していく。粗野な愛こそ自然に帰れるときもあるのに。 そんなことを考えた。
Vita nuovaの文体に関する一考察 散文/韻文の関係
須賀さんは、『イタリア文学論』の『Vita nuovaの文体に関する一考察 散文/韻文の関係』にて、Vita nuova:ダンテの初期の作品『新生』についての文体論的探求を論じている。
Vita nuovaは
・作者の清新体時代の作品
・若いダンテとベアトリーチェの恋の物語
・ひとつの聖人伝
などとして愛されてきたダンテの初期作品でもある。(*1
ダンテの置かれた時代は、俗語によるあたらしい文学の創造の時代でもあったようだ。
確かにそうであろう。一三世紀末とはいえども、ラテン語が、ヨーロッパ世界の文化を統一する言語であった時代の終りに近づいてはいたが、宗教的なものはラテン語がほとんどであったことが推察される。(*2
Vita nuovaはKindleで百五〇円にて見つけた。
第九章を取り上げているので載せておく。
須賀さんは、imaginazioneを軸にして apparve/disparveを引用符のように、この「愛」のやりとりを囲んでいる、と指摘している。(*3
囲まれている部分だけを取り出してみると
「私」と「愛」との出会いを「」の手続きをほとんど使わず描写し続けるダンテ。
この愛の遭遇について須賀敦子さんは以下のように指摘されている。
散文と詩におけるカッコの扱いを巧みに意識して使い分けているダンテ。
散文とは異なり、詩にカッコは既に詩そのものが異次元性をもつため、必要ないとダンテが明示的にしている可能性を須賀敦子さんは指摘していた。
詩はすでに異次元であるというのは、ミハイル・バフチンのいう《異説》としての言語だそうだ。
現実と虚構、幻想の曖昧な境界をみごとに表現していると思えた。
ダンテから逸れるが、現代文学で言えば、タブッキ、サラマーゴ、ゼーバルトらもカッコと改行なしで地の文から読者に境界の曖昧さを提示している。
また散文文学の起源において、散文における韻文の優越性はほぼいずれの国/言語にも認められるそうだ。
それゆえに、散文の品位、描かれる事物そのものに品位を付与する手法であるようである。(*4
「異次元への移行に定形生にしばられたシンタックスは、遠近法以前の絵画を思わせる」(*5 との指摘から、なるほどなぁと感心した。
註釈
1 須賀敦子全集第六巻 p122/Gianfranco Contini,Letteratura italiana delle origini,Sansoni,Firenze,1970 p.299
2 須賀敦子全集第六巻 p77
3 須賀敦子全集第六巻 p123
4 『源氏物語』の桐壺の巻や『古今集』をあげて、抒情的叙述のクライマックス導入/設定を須賀敦子さんが紹介されている(須賀敦子全集第六巻 p131)
5 須賀敦子全集第六巻 p129
おわりに
ヤコポーネの狂信的で熱烈な神への愛がどこかランボーに繋がっている気がした。
ダンテについては、とても勉強になった。
ダンテのカッコの工夫が、タブッキら現代作家たちに引き継がれているのだろうか、など妄想した。
やはりイタリア文学論を読むと、「須賀敦子さん」、ではなく、もはや、「須賀敦子先生」である。今回は須賀さんの真髄をわずかに見せつけられたような、濃密で素晴らしくわかりやすい中世宗教詩の論であった。独占して僕だけに語りかけながら教えてくれている気がしてとても贅沢な読書時間だ。
『新生』文体論はずっとAlbinoniのAdagioを聴きながら読んでいた。