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善悪とr>gを超えたヒューマニズム

はじめに

8月に、少し前に流行った本、フランス経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』を再読した。
トマ・ピケティについては説明する必要もないほどの著名な経済学者であり、経済に興味がある方ならある程度認知しているのではないだろうか。

7月に読了したアリ・スミスのポストブレグジット小説、四季四部作での社会問題、分断、また、エマニュエル・トッドの『ドイツ帝国が世界を破滅させる』で述べられたドイツとEUの問題、移民問題など、ヨーロッパの分断がちょうど懸念され始めた前後の2013年にフランスで刊行され日本では2014年に刊行された。
ドイツが引き起こしてもいる、とピケティは論している。

トマ・ピケティ( Thomas Piketty) 
1971年、クリシー(フランス)生まれ。パリ経済学校経済学教授。
社会科学高等研究院( EHESS)経済学教授。 
EHESSおよびロンドン経済学校( LSE)で博士号を取得後、マサチューセッツ工科大学( MIT)で教鞭を執る。 2000年から EHESS教授、 2007年からパリ経済学校教授。
多数の論文を the Quarterly Journal of Economics, the Journal of Political Economy, the American Economic Review, the Review of Economic Studiesに発表。著書も多数。
経済発展と所得分配の相互作用について、主要な歴史的、理論的研究を成し遂げる。特に、国民所得に占めるトップ層のシェアの長期的動向についての近年の研究を先導している。
トマ・ピケティ略歴

僕が初読したのは2020年。刊行されて7年がだった頃だが古さはない。
今回、2年ぶりに再読してみた。
トマ・ピケティは良い意味でかなり左派(フランス的な意味で)という認識が再読して深まった。
僕の独断と偏見かもしれないけれど。

本書を再読後、著者が参照引用した『ゴリオ爺さん』バルザック著に興味を持ち、2週間弱ほどかけて読んでみた。

21世紀の資本については良書なので未読の方はぜひ読んでみてほしい。
歴史書的な一面が大きな本書だが緻密なデータ収集と検証に15年が費やされている経済書でもあり、素人でも読みやすい。用語などはネットでも今はすぐに調べることができる。

今回は欲望にまみれた資本主義の社会、パリ社交界を舞台にした『ゴリオ爺さん』にフォーカスしてみる。

ピケティの示唆するヴォートランのお説教

ピケティと言えば、コレ↓を強く指摘する人だろう。

r>g
資本収益率>経済成長率

資産/資本によって得られる富──資産運用により得られる富は、労働によって得られる富よりも成長スピードが速い
ということをこの不等式は表している。

財産の集中と社会権力の集中、あるいは権威主義。
いま正にこの図式の日本だ。
誰もが年金基金などを通じて、資産を持ち共有しているならば、良いのだが、そんな理想は今行われていない。
むしろ貧富と目に見えない格差階級構造は年々強固なものとなっており、その歪みは色々な社会問題を生み出している。

労働は永遠に「通貨/貨幣」概念がある限り、資産運用を上回ることはない、と僕は考えている。

親族など他者から譲渡された資産運用をした方が労働して貨幣を稼ぐよりもずっと効率も良い。

これが18世紀末から19世紀初頭の産業革命以来、21世紀の現代まで、世界中の現実である。

第一次、第二次世界大戦後、一時的に解消はされたが、人間の欲望はそんなものでとどまるわけもなかった。

文明が発展し、物が効率よく大量に生産できて消費され、欲しいものはすぐに手に入り、手に入る直前にはまた新しい別の物が欲しくなる。
反比例的に全体主義化と無機質的なアンチ・ヒューマニズムが加速される。

つまり、この効率的で何でもすぐに手に入り、何処へでも行くことのできる世界は、馬鹿げた世界だ。サルトルの『悪魔と神』の傍観者の市民たちによる滅びたユートピアの街、太陽の街はそのまま今のこうした世界とそっくりだ。(サルトルの『悪魔と神』は大変優れた戯曲なので、興味がある方は以前、僕が書いた感想を読んで見てほしい。)

この馬鹿げた世界を良く体現しているのが産業革命の只中にある19世紀初頭のパリ社交界でもあった。『ゴリオ爺さん』(バルザック著)ではヴォートランという胡散臭い登場人物が、そこを鋭く突いている。また、希望と野心に満ちた美貌の学生、ラスティニャックという青年にヴォートランはそのことを教えようとする。

『ゴリオ爺さん』の主人公は、ゴリオやラスティニャックらというよりも、パリ社交界そのものと言っても過言ではないかもしれない。

ピケティは、このヴォートランの話を「ヴォートランのお説教」として一節割いていたり、その他ゴリオやヴォートランら『ゴリオ爺さん』に『21世紀の資本』でかなり触れている。

「ヴォートランのお説教」
ヴォートランはラスティニャックに対し、勉強、才能、努力で社会的成功を達成できると考えるのは幻想にすぎないと説く。専門能力が相続財産より重視される分野である、法学や医学を勉強し続けたらこの若き友人を待ち受けている各種のキャリアを、ヴォートランは事細かに描いてみせる。特にそれぞれの職業でどのくらいの年収が望めるかを、ことさら明確にラスティニャックに説く。答えははっきりしている。たとえかれが首席で卒業して法曹界での輝かしいキャリアを築いたとしても、それ自体が多くの妥協を必要とするし、それですらそこそこの年収でやりくりし、本当の金持ちになる希望を捨てなければならない。
(中略)
一方、ヴォートランがラスティニャックに提案した、社会的成功をとげるための策略はもっと効率がよいものだった。下宿屋に住む若い内気な女性で、ハンサムなウージェーヌに首ったけのヴィクトリーヌ嬢と結婚すれば、ラスティニャックは 100万フランの富を手中に収められるというのだ。この結婚で、弱冠 20歳で年収 5万フラン(資本の 5パーセント)を得られる。王族検察官として何年も働いてやっと得られる生活水準の 10倍(そして当時パリで最も成功した弁護士が何年にもわたる努力と悪行の末、 50歳になってやっと得られる所得と同額)をあっという間に達成できるだろう。
結論ははっきりしている。ヴィクトリーヌがそれほど美しくもなく魅力的でもないという事実に目をつむって、一刻も早く若き彼女と結婚すべきだ。ウージェーヌは、ヴォートランの教えに唯々諾々と耳を傾けるのだが、そこでとどめの一節がやってくる。非摘出子であるヴィクトリーヌが裕福な父から認知されて、 100万フランの遺産相続人になるためには、まず彼女の兄を殺さなければならないというのだ。前科者であるヴォートランは、金さえもらえばいつでもこの仕事を引き受けるという。これはとてもラスティニャックにはできないことだった。勤勉より遺産のほうがずっと価値があるとするヴォートランの主張は腑に落ちたが、殺人を犯すほどの覚悟はなかったのだ。
『21世紀の資本』トマ・ピケティ著

つまり、ヴォートランがラスティニャックに諭すように、「資産」を運用しなければ格差から抜け出すことは難しい。

このヴォートランのお説教を『21世紀の資本』では第11章にて圧巻の検証をピケティはしている。
世襲財産が労働を上回り、逆はないこと。
前述の不等式を18世紀末まで遡って検証されている。

二つの事実がはっきり目につく。まずひとつは、 19世紀には相続フローは年間所得の 20─25パーセントを占めていたということで、世紀の終わり近くなるとこの比率は微増傾向を示した。これはあとで示すがとても大きなフローで、資本ストックのほぼすべてが相続に由来したことを示す。相続した富が 19世紀の小説に頻出するのは、作家、特に借金まみれだったバルザックがこだわっていたせいだけではない。それはなにより、 19世紀社会では相続が構造的な中心を占めていたせいなのだ──経済フローとしても社会的な力としても相続は中心的存在だった。さらに、時を経てもその重要性は減らなかった。それどころか 1900─1910年には相続フローは、ヴォートラン、ラスティニャック、下宿屋ヴォケーの時代である 1820年代に比べ、ちょっと高くなっている(国民所得の 20パーセント強から 25パーセントに上がった)。
『21世紀の資本』トマ・ピケティ著

世襲財産のない一般人は、できるだけ早くから資産運用するための資本作りを始めるべきということになる。現実的には、もっともだと僕は思う。

ゴリオ爺さんの不幸、あるいはヴォートランのお説教物語は、若き法学生の青年、ウージェーヌ・ラスティニャックが、この馬鹿げた世界の仕組み、つまり、パリ社交界そのものへと野心と復讐心めいたものを秘めて乗り込む決意をするところで終わる。

格差や不平等は何を引き起こすのか

歴史が格差や不平等が何を引き起こしてきたか立証している。
ポピュリズムの台頭や極端な思想の台頭。
そしてこうした不満からさまざまな紛争が湧き起こり戦争も起こる。

20世紀、ふたつの世界大戦が資本家たちの資産も破壊した為、一時的には格差は縮まった。
しかし、その後また資本を持つものと持たざるものの格差は拡がり続けている。
ピケティは所得課税よりも資本課税を推している。

要するに、ピケティは資本主義を否定しているわけではなく、中間層以下も資産運用せよということだろう。

ユートピア

僕的ユートピア(理想郷)は、地域単位のごくごく小さな単位でのコミュニティで自給自足し、コミュニティ同士で必要なものを交換し合う。
コミュニティの境はなく、ボーダーレス。

社会主義や共産主義とも異なる、そうした社会が各々土地ではなく、宗派も民族も超えて、共通の何か(結局はイデオロギーになる?)で結ばれそれを地域とみなす。
コミュニティの内外での言葉は共通の言語があるが、その他の言語を制約しない。
誰しもが共通言語を学べる。

隣に住んでいるからと言って同一コミュニティとは言い切れないが同一コミュニティかもしれない。

そんな社会。

欲望まみれの社会の中でヒューマニズムを取り戻すには

しかし、一度知ってしまった欲望
貨幣価値、金そのものへの欲望
金で買えないのは、自分の病気を途中から誰かに代わってもらうことくらいかもしれない。
は今や普遍的な欲望となってしまっている。

ヒューマニズムを取り戻すには、資本主義の中で資本運用をする、あるいは、そこからスピンアウトする非現実的ではあるけれどユートピア的な小さな自給自足地域単位で、テクノロジーを捨てるかしないといけないのかもしれない。

「金」含めて「あらゆる欲望」から解放される、コントロールできる時、自己中心的な考えから博愛的な経済、文明にシフトチェンジできるのだろうか。現代社会であらゆる格差を埋めるヒューマニズムを取り戻すには文明を否定せざるを得ないのだろうか?
答えは当分出そうにない。

バルザックはもっと読んでいきたい。

いつの時代も人間は本質的に自己中である。
そして親の心子知らず。これも親のエゴと言えばそうかも知れない。
しかし、とりあえず、親孝行せねば。
欲望の話はその次だ。

株、仮想通貨(ちょっと怪しいけど)含めた暗号資産系、投資は色々あるけど不動産がどこも定番?
建設業だと不動産投資している人もそこそこいるよね。
ボロ家リフォーム→賃貸からのトラブル系をよく見かける。
結局、金の話、ワタシは欲望まみれです。

少し先では戦争してたりするのに。
馬鹿げた世界の人間喜劇。

余談

藤原書店からの新訳が評判が良いそうです。
僕は新潮文庫でも充分楽しめました。
最初の数十ページは人物相関図を自分なりに工夫しながら書いてみると、案外するする読めるかも知れません。

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