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歴史を家族で語り継ぐこと、文学のなせる事─野火を読んで思ったこと

はじめに

2022年の終戦記念日。
特別な思いが僕に僅かながら生まれた日であったかもしれない。
同年2月24日より身内の祖国は隣国への侵略行為を大きくした。
妻の祖国と妻の親戚の祖国は現在では戦争状況にある。
一刻も早く、停戦し調和へ歩み寄ることを強く願う。

こうした、当該国の方々は冷静に声を上げ行動をすることが非常に困難である。当該国からやや離れた位置の人々はその方々の代わりにやらねばならぬことが多くあろう。

しかしながら、報道は日に日に少なくなり、目の前の見えている問題処理などに追われて、遠い外国の出来事でしかないという無意識的な感覚になりかねない。

決してそうではない。

日中戦争や東南アジア諸国を植民地的配下におこうとした時代のことを思い返してみてほしい。

時は80年以上前。このことを語れる体験者の先人の方々は既に亡くなっていたり、ご存命されていらしてもかなりのご高齢である。

もし、幸運にも、地域にそうした方々がいらしたら、再度、彼らの声に耳を傾けてみてほしい。

それが叶わぬ場合、当時の戦争記録や文学に少しでも興味を持ち、手に取ってみてほしい。

大岡昇平さんの『野火』、『レイテ戦記』などは太平洋戦争終盤の南方、フィリピンでの極限状況におかれた兵士たちの物語であったり、記録である。

野火を読むキッカケはアサミさんから頂いた。

この時期、南方だけではなく、ノモンハンなど、満州においても激戦となり、多くがソ連の捕虜となって帰らぬ人となった。

曽祖父が満州支那方面へと送られた時期昭和12年あたりから16年はまだ物資食料などは軍人には支給をきちんとされていたようだ。(祖父談)
職業軍人として終戦まで軍務についたが心の傷は癒えることなく生涯引きずった。
傷痍軍人会で互いに語り合うことで心の内を鎮めようしたようでもある。

曽祖父が家族に戦争について語るには、 50年以上という長い期間を要した。

大岡昇平さんは終戦後、僅か6年して『野火』を書いている。
『野火』を読んだ僕は、著者は書くことや取材することで、戦友たちや自身の傷を何とかしよう、戦争のことを何とか後世に伝えようと、強い意志で試みたようにも思えてならない。恐らく癒えることはなかったであろう。

医師は私の手記を、記憶の途切れたところまでを読み、媚びるように笑いながらいった。
「大変よく書けています。まるで小説みたいですね」
「僕はありのままを書いたつもりです」
『野火(新潮文庫)』大岡 昇平著

軍国主義の中で生を受けるという偶然と極限下での露呈される人間のありのままの姿

病気を患うも隊では邪魔者扱いされ、野戦病院へ行けと言われる主人公。
しかし、そこでも病人は食料を逼迫するとして追い返される。
食う物もなく、ひとり彷徨う。
その過程で民家へ押し入ってフィリピン人女性を殺害したり、同胞に出会ったりもする。

しかし人間は偶然を容認することは出来ないらしい。偶然の系列、つまり永遠に堪えるほど我々の精神は強くない。出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とかわが生涯とか呼んで自ら慰めている。ほかに考えようがないからだ。
『野火(新潮文庫)』大岡 昇平著

『野火』の中での主人公は偶然について語る。
偶然。
軍国主義の中生まれた人々は、偶発的事象を必然と捉え直すこと、あるいは言い聞かせることで、折り合いをつけて自らで癒すしかないかもしれない。死にかけの同胞に死んだら自分を食えとすら言われるような極限下、生きるか死ぬか、食うか食われるかの二者択一を一瞬一瞬迫られる。

選択する全ての瞬間に人間の本質が露呈される。

極限に追い詰められていく中、自分以外、何かを信じたい。それを拠り所にするしかない。

そうした気持ちは無宗教な人々であれ、理解できるのではないだろうか?
主人公は少年期、キリスト教に触れていたことから、厳しい現実に、神への救いをもう一度感じようとする。

僕はカトリック教徒である。この主人公の描写からは、信仰心が厚いとは決して思えない。
そこに赦しが大前提とされると個人的に考えるからでもある。
強制収容所で身代わりとなられたコルベ神父さまのお話を思い出したりもする。

それだから、あなたがたの天の父が全きひとであられるように、あなたがたも全きひととなりなさい。
マタイによる福音書 5ー48

民家へ押し入った際、叫び声を上げるフィリピン人女性に怒りを感じる主人公。
極限の本来の人間の姿が露呈したことを描いている。
全きひとになること、自己犠牲をしてでも赦すこと、こうしたことを信仰心が厚ければよぎったであろう。
撃ってはならぬ、と綺麗事かも知れないが、そう思うのだ。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。
コロサイ人への手紙 3-12

しかし、主人公は怒りに任せて発砲する。

著者は、キリスト教について描きたいと思った訳ではないことも推察できる。
カトリックであれプロテスタントであれ、キリスト教をテーマのひとつとしたかったら、恐らく、別の方向、やはり「愛と赦し」へ物語は進んだのではなかろうか?

私をあの人と代わらせてください。
私は神父。妻もなければ、子もいませんし、それに年寄りです。
彼を、あの若い彼を、妻子のもとにかえしてやってください。
聖フランシスコ修道会司祭 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父

むしろ、著者は剥き出しの何にでもすがろうとする人間の姿を描いたように僕は思えた。

そして、そうした姿を描くことで、強く伝えたい、伝えねばならぬという確固たる想いと意志がことがあったのだろう。

現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。
『野火(新潮文庫)』大岡 昇平著

戦争の無意味な破壊は物だけではなく当然、人間そのものや絆を簡単に破壊していく。
死んだ同胞を食うにしろ、被弾した自分の肩の肉を食うにしろ、生きること、それしか目標は既になく、そうした中では、信仰なき者にとっては、神も仏も後付けの何かでしかない。
体験した者たちだけがその無意味さを理解する。
曽祖父は、「もう、戦地へは誰も行かせたくない、二度と戦争を繰り返してはならない」といつも言ってもいた。

純朴と善良と正義のないところに偉大はない。

もし苦しみがなかったら人間は自分の限界を知らなかったであろう、自分というものを知らなかったであろう。
『戦争と平和』 レフ・トルストイ

心身ともに負う深い傷


また、こうした傷は曽祖父や著者だけではなく、多くの方々がひきずりながらも、平和を願い、日本の復興の為に尽力されたであろう。

大日本帝国時代の日本がしてきた侵略や暴挙にしっかりと反省をすることと、体験者らの平和への願いや思いを、決して忘れてはならぬ、と僕は思う。

きちんとした反省の上で、ようやく次へのステップ、赦しと調和へと向かえるのではなかろうか?

心身共に深い傷を負っていても、生粋の軍人であった曽祖父は非常に寡黙でもあり、戦後に戦時中の政府に対して何か意見を言うということは一切なかった。
戦争のことよりも、

仁義礼節に重きを置くこと
弱い立場の人々を助けること
喧嘩をしないこと
お母さんと兄弟を大事にすること
何があっても、たとえ乗り越えられない状況下であっても生き抜くこと

これらを子ども、孫、ひ孫たちによく言っていた。

戦後80年近く経ち、今ではこうした記憶を持つ政治家は果たしてどれほどいるのだろうか?

人間を襲う最大の害悪は、人間の実存を隷属的な機関の状態に貶める害悪だろう。ところが誰一人として、政治家、作家、学者になることは絶望的なことだと気づかない。気づかれることのない欠如を直すことは難しい。人間社会の役割の一つになるためだけに完全な人間になることを断念する人、こんな人を蝕んでいる完全性の欠如を直すのは難しい。
魔法使いの弟子 ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井 健 
景文館書店 p5

薄れていく共通の記憶、国家の記憶、個人の記憶。
同じ過ちを繰り返し始めていても見て見ぬふり。あるいは見過ごしていることにすら気づかず、気づいた時には、悲惨な現実を場当たり的に処理するしかないのか?

日本だけでなく、近隣諸国の先人たちの傷や苦労は報われることなく踏み潰して消耗的な快楽、居心地の良い、耳触りの良いことだけに目を向けて、あたかも、自分は前向きに行動している、と自己中心的なことしか主張できないのだろうか?

おわりに

私は飢えを意識した。
その時再び私の右手と左手が別々に動いた。  手だけでなく、右半身と左半身の全体が、別もののように感じられた。
飢えているのは、たしかに私の右手を含む右半身であった。  
私の左半身は理解した。
私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。
生きているからである。 
花は依然として、そこに、陽光の中に光っていた。見凝めればなお、光り輝いて、周辺の草の緑は遠のき、霞んで行くようであった。
『野火(新潮文庫)』大岡 昇平著

極限の中で見えたものの描写。
こうしたことを追体験することを可能にするのが文学の持つ素晴らしい力でもある、と僕は思う。
そして、文学は識字力があれば、身近な社会問題から遠い過去の歴史や遠い外国での起こっていることまでをも伝える力がある。
だからこそ、子どもたちには境遇に関係なく、本を読む機会があるべきでもある。
そして、こうした過去の身近な先人たちの記憶を語り継ぐ中で、本のことに触れていけたら、家族の中で考えることも新しい発見も新しい書物との出会いもあるかも知れない。
世界というのは否応なく繋がっている。
老若男女、貧富の差や人種によらず、繋がっている。
僕らが生まれた時には既に繋がっていた。
そうした繋がりから色々なものを享受してきたはずだ。

***

鏡の中の僕を見つめて心の中で時々叫ぶ。

ユートピア「太陽の町」の住民たちよ、
無抵抗主義になるな!無関心を装うな!
弱いものたちや虐げられているひとたちに目を向けて声を上げろ!
彼らは繋がりの中で彼ら自身でなくとも、何かしら平穏な側のひとたちにしてきてくれている。
どうして見ないふりをするんだ?
何のための言論の自由なのか?
消耗的な面白おかしなことや綺麗なことには欲望の赴くままなのに?
すぐそばで起きている弾圧されているひとたちにはなぜ「そういうのは精神的に無理」だとか「わかってはいるけど」で未だに済ませられるの?
どうして声を上げないんだ?
なぜ、社会問題にしろ政治にしろ世界情勢にしろ、こうした場でもどこでも気軽に議論し合わないのか?
なぜ立ち止まったままの自分の足元しか見ようとしない?
勇気を持って、勉強不足であれ、下手であれなんであれ、気軽に話すことから前へ進もうとしないのか?

どうして自ら盲目になるのか?
なぜ権力を握るものは金に目が眩むんだ?
どうして、戦争を長引かせる?
どうして即時介入して話し合いを粘り強くさせる方向へ全力で協力し合わないのか?

どうして文明を発展させてきたはずの人間は強い者が常に弱い者を虐めて欲望を満たそうとするんだ!

そうしたニュースはなぜ段々と消えていくの?
インターネットでもなんだっていい。
今はとりあえず、誰でも自由に思いを語れる。
なのになぜ、虐げられているひとたちから目を逸らすんだ?
なんのために字がよめるんだ?なんのために哲学を語り、なんのために膨大な本や映画や音楽、豪勢な料理に小洒落たカフェで中身のない暇つぶしをするんだ?
字も読めて、他人のご立派な考えを知り、薄っぺらい教養と火の消えた魂で考えているふりをして、悲鳴を聴かない。

なりふり構わず幼稚な愛や平和を語って何が悪いんだ?

非常に憤りを感じ、時々、心の中で叫ぶ。
鏡に向かって叫んで気狂いになっていく。
僕が気狂いなのか?
「暗い話しかまた書かない、遠い国のこと遠い昔のことなんて考えて馬鹿げてる」
《馬鹿なのは目を瞑り耳を塞ぐお前だろ。》
「何もできないくせに」「外ヅラだけの見た目だけの奴じゃん」
《じゃあ、お前は何したんだ?》

ずっと2月から叫んでいる。僕だけじゃない。

《私は太陽である》

***

ノーと言い続けるのが文学者の役目、黙っているのはいけない
NHKでのインタビューにて、大岡昇平

冒頭で述べたとおり、現在のロシアの侵略行為は過去の大日本帝国の支那方面への侵略と大差ないように思えてならない。
また、ニュースに流れてくるブチャなどでの惨状もかつての日本軍のしてきたことを思い出してみてほしい。

僕は先人の方々を今更責めることなどは出来ないしそんな資格は到底ないが、先人たちを「責める」のではなく、事実を知り、僕らが反省し次に生かさねばならぬと思う。

誰でもそう考えているだろうし、何を今更稚拙なことを書いているんだ?と思われるかも知れない。

けれど僕は書いて残しておく。
小さな野火に見える幻夜の狼煙のように。
いまも絶望的な状況下で、希望を持つひとたちもいる。
そのひとたちのために狼煙をあげていたい。


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