『無垢の博物館』 オルハン・パムク
はじめに
2008年のノーベル文学賞トルコ人作家、オルハン・パムク。(パムクのノーベル賞受賞スピーチが公開されている)
『パムクの文学講義』を今年の夏頃読んだのが最初で、彼の小説は本作が初だった。
結論を先に述べると、作家の遊び心もあり上品な官能恋愛小説でとても良かった。
好きなひとは好きになる、そんな気がする。
展開がスローテンポなので物語の起伏が激しくない。
僕は幻想と現実の曖昧さと官能性、郷愁を感じさせる雰囲気小説が好みなため、ちょうど良かった。
少し前に集中していたアニー・エルノー作品も性愛が描かれていることが多かった。
オルハン・パムクは性愛の表現がロマンティックでどぎつくない。
それなのに、香水の香りと汗の匂いが充満する部屋を想像させてくれる。そしてイスタンブールの情景が目に浮かぶ。
密室の限られた濃密な香水の香りが主人公ケマルをフュスンの面影に30年間捉え続けたのだろうか。
不在の存在をイスタンブールの情景とともに強く薫らせる作品だった。
容姿など表面的なものにとどめられた女性の描き方がトルコでの女性の権利の希薄さを自然と読者に伝えてくる。
『パムクの文学講義』を以前読んだとき、読者が小説を著者の体験談と錯覚することを楽しみと言っていた気がする。見事に実践されている。
小説と読み手の二重の相互的受肉
サルトルは『存在と無』で、「二重の相互的受肉」の敢行が性的欲望の対象の所有へと転換あるいはすり替えられることを次のように言っている。(このことについては以前『ねじの回転』ヘンリー・ジェイムズ著の感想でも触れた。)
小説を読む行為におけるエクリチュールと読み手の関係にもこれと同様の現象が起こっているような感覚を覚えるときがある。
郷愁と汗の匂い、展示物のようなフュスンの所持品やふたりの何か=点がそれぞれに結びつき《時間》となる。とても上品な官能恋愛小説。
性愛の描写美があるからパムク自身上品でエロいんだろうなぁと思ってしまった。
近代化に対する批判と女性の権利
主人公ケマルの偏執さがだんだんとケマル自身を孤独に追いやるのだけれど、これが安部公房の『砂の女』の女に少しだけ似ている感覚を覚える。
パムクは谷崎潤一郎の陰翳礼讃が好きなようだ。
谷崎の陰翳礼讃はかなり明確に日本の伝統文化が西洋化によって廃れていくことを述べられており、僕の好きな本の一冊でもある。
トルコの社会が、急速に西洋文化に伝統文化が侵食されていく様や女性の権利のなさの描き方から、パムクの考えもよく伝わる。
谷崎の時代も日本はパムクの描いた時代背景と同じように、女性の権利が危うかったと思う。
けれど、谷崎の女性の描き方の方が僕は好みだ。
女性の主体性に谷崎がフォーカスしているからなのだろうか。
官能性もそのためなぜか増す。
完全に好みの問題かもしれない。
僕は、刺青を子どもの頃読んで、最後の女の背中に彫られた蜘蛛の刺青が生き物のように思えたり、あのシーンが、僕の読んできた本たちの中で今でも、いちばん官能的風景に思う。
本書の女性たちは、モノのように客観視されて描写されている。そのため、いかに美しくても、どことなく主体性が剥奪されている。
それがひとつのトルコの問題でもあったのだろう。
エロスは男女関係なく主体性があってこそ濃度があがると思う。
痴人の愛のナオミは強烈に官能的だ。
それでも霧と水路の街にいると、イスタンブールの雑然さや埃っぽい感じが妙にマッチしてくるから不思議とエロさが良かった。
おわりに
本作から脱線するけれど、『パムクの文学講義』はとても分量は薄いけれどかなりの良書だと思ってもいる。
なお、パムクはノーベル文学賞の賞金を注ぎ込んで、本書の博物館を再現してしまったようだ。
イスタンブールを訪れたら、本を片手に訪れてみたい。