いつか「大君」に堂々と
ふふん。
原題が”THE LAST TYCOON”で、邦題が「最後の大君」ですって。
職場の棚で見つけた際、春樹さんが訳したレイモンド・チャンドラー「大いなる眠り」のフィリップ・マーロウみたいな笑い方をしてしまいました。
でもよくよく調べたら、英語の”Tycoon”は日本語の「大君」が語源とのこと。ペリーが来航した際、幕府側が将軍のことをそういう名前で紹介したとか。つまりシャレではなく真っ当な訳なのです。
フィッツジェラルド、と聞いても「誰?」となる人は多いかもしれません。でも代表作の「グレート・ギャツビー」はどこかで目や耳にしたことがあるはず。ぜひ一度は手に取って欲しい傑作です。
とにかくやるせない。もどかしい。「何でそうなってしまうんだ?」とアンラッキーな巡り合わせを含む人生の不条理に頭をかきむしりたくなります。でも思うようにいかないからこそ、ギャツビーが時には滑稽とすら映る「純粋な願い」を貫く姿に胸打たれるのも事実。
最初は野崎孝さんの訳で読みました。素晴らしい。ザ・クラシック。でも私の中では春樹さんバージョンの方がほんの少しだけベター。なぜなら彼の訳に触れることで、やっと今作の真価を理解できたから。
併せて村上文学の転換点である「羊をめぐる冒険」に出てきた「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさも辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ」というセリフを噛み締めました。
有名無形で作中に散りばめられた「訳者の思い入れ」をどう受け取るか? それによって好悪の判断が変わってきそうです。
ところでフィッツジェラルドは「バビロンに帰る」や「氷の宮殿」「失われた三時間」など苦味のスパイスが効いた名短編を多く書いています。「ギャツビー」がむしろ例外で、本質は短編作家なのかもしれません。一方で私のその見解は、単に↓を読んでいないせいかなという気もしています。
600ページで4620円。俗な数字だけを見て躊躇してしまう。私もまた弱い人間のひとりですね。
でもやっぱり著者が苦心の末にどうにか最後まで書き上げ、各方面から絶賛された今作をきちんと読了したい。本気には本気で応えたい。然る後に未完の絶筆へ挑むのが愛書家の筋ではないかと勝手に考えています。
いつか「大君」に堂々とお目見えしたい。作品を世の中へ訴え、読み手の今日を昨日よりも幸せにする「書き手」として。諦めません。緑色の灯火へ手を伸ばし続けたジェイ・ギャツビーのように。