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ハードボイルド書店員日記【66】
午前11時半。雨の日の仕入れ室。
壁際に山と積まれ、いまにも崩れそうなダンボールのいちばん上へ手を掛ける。某版元からの直送だ。中身の大半は児童書だろう。稼ぎ時なのはわかるが過剰だ。営業マンが棚を見ずに注文書を作るとこうなる。
「すいません、ちょっといいですか?」
顔を上げる。小柄で髪の長い黒縁眼鏡。文庫担当の女性だ。少し前にバイトから契約社員へ昇格した。「どうしたの?」「年末からお正月って入荷が止まりますよね」「ああ」「棚がスカスカにならないように多めに注文した方がいいですか?」「そうだね。荷物は4日から来るけどしばらくは少ないし」いつもこれぐらいの量なら助かるのに、と書店員は毎年同じことを考える。
「お正月ってどういう本が売れますか?」「お年玉とか雰囲気でみんな財布の紐がゆるい。パッと手に取って気軽に買えるものがいい」エンタメ系人気作家の名をいくつか挙げた。老若男女誰もが知っている定番中の定番だ。「じゃあ長くて分厚いのは」「難しいかもしれない」「友人は年末年始で村上春樹の『1Q84』を読破するって意気込んでました」「そういうケースもあるか。春樹さんはいい意味で純文学っぽくないからアリだな」「わかりました。『1Q84』全巻積みます!」眼鏡のレンズがぎらりと光る。「いや積まなくても。切らさなければ大丈夫」
入荷した本を各ジャンルのブックトラックに置き、ダンボールを解体する。もうすぐ休憩だ。残り時間でコミックのシュリンクを、と考えているとまた来た。「○○さんは占いとか暦の本を増やすみたいです」「だろうね」○○は実用書担当だ。キャリアが長いからどの季節に何が動くかを概ね把握している(夏前はダイエット本とか)。ゆえに彼女の棚は常に安定している反面、やや面白味に欠ける。
「先輩の棚は何を推しますか?」「『FACTFULNESS』とか『人は話し方が9割』とか」「ド定番ですね」「だからそういうのがいいんだって」「あとは?」あとは、と脳みそを急速に揺り動かす。
「…ホリエモンの『ゼロ』を面陳にするかな」「え、何でですか?」「何か始めたい、リセットして新しい自分になりたいって誰もが考える時期だから」「ああなるほど」「文庫でそういう本、思いつく?」「何だろう…わかりません」腕を組み、つるつるの額に皺を寄せる。「好きな作家は?」「いや特に。あまり本読まないんで」こういう書店員も稀にいる。「最近面白かった本は?」「何でもいいんですか?」「いいよ」「そうですね…マンガで『ジョジョの奇妙な冒険』とか」「じゃあこれだ」端末のキーを叩き、↓のデータを出した。
「へえ、こんな小説あるんですね」「スピンオフの『岸辺露伴は動かない』が年末にドラマ化してNHKで放送される。それがきっかけで露伴やジョジョに興味を持った人が手に取ると思わない?」「思います! 表紙に露伴先生もいるし」むしろ私が買います、と身を乗り出した。「読みたい本を即注文できるのは書店員の特権だ。商売に繋げてこそだけど」「はい! ありがとうございます!」元気に駆けて行く。あれが若さというものか。
ふと考える。先ほど発した己の言葉がなぜか新鮮に響いている。読んだ本は自信を持って推せる。だが読みたい本で仕掛けて売る腕をもっと磨きたい。売り物の全てを読破できるわけではないから。2022年はそれを抱負にしよう。書店員として新たなスタートを切ろう。
では何を推すか? 来年はどんな本を売っていくか? 答えは簡単には出ない。そこで気づいた。落ち着け、いきなりはムリだと。
「…『ゼロ』からでいいか」既読だが未読のつもりで。ゼロからイチへ。地道に行こう。窓から淡い白光の帯が差し込んでくる。どうやら午後は晴れそうだ。
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