ハードボイルド書店員日記⑫
私は不器用な中年だ。藤原伊織の書く小説の主人公がそうであるように。尤も彼らとは内実が異なる。私の場合、生き方よりも手先が壊滅的なのだ。おかげでミニストップで買った「ういろう―白―」を開けられず、二十三分も浪費した。
鋏を借りよう。ずいぶん歩いてしまったので他のコンビニを探した。ある。でも「ミニストップ」の商品を食べるために「セブンイレブン」の店員を煩わせては申し訳ない。なぜ駅を出て早々に「ういろう」など買ったのか。目的は缶のブラックコーヒー。だがレジ前のスペースに並ぶ和菓子が目に留まった。気温の高いせいで水分を欲したのがそもそもの原因だから「太陽のせい」と言えなくもない。私のママンはまだ健在だが。
路地に入った。古びた喫茶店の横に更に古びた書店が並んでいた。おそらく司馬遼太郎とフランス書院が充実している。外の平台とラックに雑誌が置かれ、白いワイシャツの上に紺のセーターを着た白髪の紳士が入り口横のレジ内に立っていた。
いきなり「鋏を貸してくれ」では警戒される。休みの日に大型書店でそうするように、私は棚の構成をチェックした。左寄りのラインナップが多いと思いきや、すぐ上が右の巣窟。司馬とフランス書院は想像以上だった。この規模の店で「木曜島の夜会」を置いているとは。手に取ってレジへ向かった。
「ねえ『鬼滅の刃』全巻欲しいんだけど」
荒い息遣いと共に客が駆け込んできた。浅香唯の口にホースを含ませてポンプで空気を送り込み、四十年寝かせたような女だ。店主が「売り切れていてしばらくは」と口ごもる。女は「じゃあいつ入る? クリスマスまでに欲しいんだけど」「お金は先に払うから。ラッピングもお願い」と一方的に話を進める。友人の数が目の矯正視力と一致するタイプだ。言いたいことを言い終えると高級ブランドのハンドバッグから鰐皮の財布を取り出し、ふおうっと息を吐いた。まさに全集中の呼吸だった。
「すいません。年内に間に合うかわからないのでご注文は」
「何で? まだ一か月あるじゃない。何とかしてよ」
心の中で「そんなだから皆に嫌われるんですよ」とつぶやき、私は「あの」とふたりの間に入った。
「ぼくもさっき他の店で言われたんですけど、いま『鬼滅の刃』は全国の多くの書店で既刊の客注とお取り置きを停止しているみたいです」
「え、どうして?」
「重版してもどれぐらい入荷するかわからないから、数を確保できないようですね。12月に出る23巻は通常版なら予約できそうです」
スマホで検索した有名書店のSNSを見せた。「漫画ファンの事情通」を気取りつつ、私はエゴと身体が肥大した三代目スケバン刑事を説得した。女は意外にあっさり引き下がった。子どもにしつこく「全巻探してくれ」と言われて辟易していたのかもしれない。
「ありがとうございます。助かりました」
「あ、いえ」
会計を済ませて店を出た。早足で駅へ戻り、改札を越え、電車に乗り、シートの端に腰を下ろした。そこで「ういろう」を思い出した。休日。初めて降り立った町。行ってみたい場所があったことも。私は何かを叩きつけるように「ういろう」の包装を左右に思い切り引っ張った。弾力に富んだ白い中身が飛び出す。口の中に広がるほのかな甘さを噛み締めながら、ある漫画の台詞を頭の中で反芻した。
「人のためにすることは巡り巡って自分のためになる」