僕の名はアラム
アルメニア移民の子として、アメリカはカリフォルニア州フレズノに育った少年アラム・ガログラニアンが、個性豊かな一族の面々や友人、学校の先生などを巻き込んで引き起こす騒動と心の交流を描いた連作短編集。
と書くと、なにやらトム・ソーヤ流のグッド・バッド・ボーイもののようだが、そしてそう受け取っても間違いとはいえないのだが、それだけではこの作品の魅力をじゅうぶんに伝えられない。実はぼく自身、そんな予断をもって読み始めた。やんちゃな少年が親や先生の期待を表面的には裏切りながらも、彼らに少年を罰し、許しを与える機会を提供することによって、一段深いレベルでおとなの望みに応え、型どおりの優等生よりもずっと好かれる、そんなストーリーを想像していたのだ。
だが、予想は裏切られた。14の物語たちはもっと豊かで、そのうえ、びっくりするほどおもしろい。ちょっと似たものが思いつかないような独特のユーモアに、何度も声を出して笑った。反面、これはいったいなんなのだろうという不思議な手触りもあった。おとなとアラムの噛み合わない会話が特に可笑しい。
たとえば「ザクロの木」では、メリクという親戚のおじさんが砂漠に農園を作ろうとする。おじさんは、購入したばかりの不毛の地にアラムを連れて行き、そこで生まれて初めてツノトカゲに遭遇する。
〈これが千匹集まれば人だって殺せるだろうな、とおじさんは言った。
こいつら絶対群れないよ、と僕は言った。ほとんどいつも一匹だけでいるんだよ。
大きいやつだったら、たぶん人を噛み殺せるだろうな、とおじさんは言った。
大きくならないよ、これで最大なんだよ、と僕は言った。〉
なににつけ感傷的で世間知らずのこの愛すべきおじさんにとって、アラムは唯一の理解者のはずなのだが、当のアラムの真摯な返答は、おじさんのロマンにことごとく水を差す。
「村上柴田翻訳堂」の最初のラインナップとして本書と同時に出た『結婚式のメンバー』の少女フランキー・アダムスが、おとなもみな持っているのに隠したがる承認欲求を肥大化させてはばかることなく口に出すキャラクターだったのと対照的に、アラムは、いつの間にかおとなが身につけるようになった衣服を容赦なく剥ぎ取っていく。メリクおじさんのロマン主義が滑稽に堕したように、「愛の詩から何からすべて揃った素敵な昔ふうロマンス」では色恋が、「長老派教会聖歌隊の歌い手たち」においては宗教が、個人的な趣味に過ぎないものとして相対化される。あなたの好みに口は出しませんが、僕に押し付けるのはやめてくださいね、とでも言わんばかり。
そうなのだ。遠目の印象と違って、騒動を巻き起こすのはアラムに限らない。反対に、アラムのほうが巻き込まれるケースもたびたびで、いずれの場合もアラムはことさら反抗的ではない。どちらかというと、自分の身を守るため、あるいは正直であろうとするためにどうしても譲れないというとき以外は、おとなの都合や自己像に一定の理解を示そうとさえする。そこがユーモラスなのだ。もしこれが、子どもの純粋さを前面に立てておとなの独善を糾弾する、というスタイルであれば、もっと素朴な味わいの児童小説風の作品になっていたにちがいない。
この、ありそうでなさそうなところ、敷居は低くても一筋縄でいかないところ、そこがなんともそそる。その点で「僕のいとこ、雄弁家ディクラン」も意義深い。アメリカ文学史上冷遇されてきた(トム・ソーヤの弟シド・ソーヤのような)グッド・グッド・ボーイがついに認められる物語とも読めるからだ。ただ、家長である実際家の爺さまが優等生ディクランを評価する言葉は単純ではない。両義的な価値観を含んだ、シニカルかつ愛情深いものだ。最後に爺さまが残したつぶやきは、この滋味に富んだ作品の主人公に対する作者の視線と重なるところがあるようにも思える。
〈まったくこの、頭のおかしい素晴らしい世界の、頭のおかしい素晴らしい子供たちときたら!〉
(文:ジラール・ミチアキ)