【完全即興作品】はヤバイ
(動画を拝借します。)
【ダンスの作品】と呼ばれるものは
先の記事で書いた通り
①あらかじめカッチリ作品と仕上げるモノ と
一切事前に作り込むことなくすべて即興によりLive進行する
②完全即興で「生の作品」として仕上げるモノ と
大きく分けて2つある。
一般のお客さんが目にするのは、ほとんどが①の
事前にカッチリ作品として作られたモノで
②の完全即興オンリーの作品というのはほとんど目にすることがない。
もしも、ダンスの完全即興作品を見たことがあるというなら
かなりの通で目の肥えたお客さんだと思う。
これはダンスの世界だけでなく音楽業界でも同じで
一般社会で完全即興を「作品」として見る機会があるとすれば
書道の「ライブペイント」
演劇の「即興芝居」
噺家の「即興漫談」 なんかになるんだと思う。
それぐらい目にする機会が少ない。
日本では一般的に馴染みのない作品でもある。
JAZZミュージシャンはよく「アドリブ」をする。
というか、JAZZマンはアドリブが出来てなんぼなので
出来ないと話にならないようなところはある。
でもあれは「完全即興」ではない。
厳密に言うと「アドリブ」と「完全即興」は違っていて
「アドリブ」は
事前に一連の流れが決まっている中での瞬間的な即興となり
まったく流れが決まっていない中進められる「完全即興」とは
厳密には違うこととなる。
音楽でもいきなり打ち合わせナシの掛け合いで完全即興が出来るけれど
それはスタジオ内だけで遊びとしてやることがほとんどで
それを「作品」としてお客さんに披露するミュージシャンは大変珍しい。
というのも、
「完全即興」というのは本当に事前に一切打ち合わせをしないので
「その場でなにがどうなるのか一切わからない」
この極めてスリリングに現在進行形で進むlive感が最大の魅力なんだけど
興行を打つ側からすると「かなりリスキーなこと」である為である。
ミュージシャンは完全即興をやりたいけど、
スポンサーがそのリスクを懸念するということがよくある。
だからミュージシャンの完全即興というのは
一般的にはあまり目にすることがない。
これはダンス業界も同じで、「完全即興作品」というのは
本当に披露する機会自体が少ないし、目にする機会もまた少ない。
巷で流行っているダンスバトルというのは
一見完全即興のようには見えるけど、実際はそうではなく
作り込まれていることがほとんど。
ごく稀に完全即興のダンサーはいるけど
そういうダンサーは見る目のない審査員によって落とされるのが現状。
それにダンスバトルというのは「競技」のようになっているので
感覚としては社交ダンスの競技会のようなものであり
あくまでも競うことが主となるので見る客にとっては
「スポーツ選手の技をインスタントに見る」ような感覚で
「作品の鑑賞」とはかけ離れることとなる。
ダンサーでも知らない人間がいるほど超マニアックなダンスジャンルで
「エクスペリメンタル」というものがあり
これは「実験的」という意味で
ヨーロッパなんかではわりと受け入れられているジャンルである。
日本で言われる「ダンスの型」とかは一切問わず
とにかく「現在進行形でダンス作品が作られていく」ことに重きを置く。
なのでエクスペリメンタルは
「ダンスの型」として「完全即興」を意味することとなる。
日本では「ダンスの型」というと
「バレエ」だの「ジャズダンス」だのそういうことを意味するが
エクスペリメンタルはそういうダンス自体の型は一切持たず
あくまでも「現在進行形の実験的であるさま」を表している。
過去に自分は完全即興作品をいくつも披露したことがあるが
それらはすべて「エクスペリメンタル」となる。
その完全即興作品をみて
「コンテンポラリーだね」と言っていた同じダンサーが結構いたが
ダンスジャンルの「コンテンポラリー」というのは
あくまでも「枠にはまらない、前衛的なダンスの型」を意味するので
即興性の有無とはまた別の話となる。
ダンサーでさえよく理解が出来ていない部分なんだな、
とよく思ったりした。
「完全即興作品」は
事前にカッチリ作り込まない
本当に何の準備もナシにやるので
「自分以外は、すべて不確実性のあるモノ」
その不確実性をすべて許容できた状態でステージに立てるか
これは並みの精神力で出来ることではない。
不確実性であるからこそそれが起爆剤となり爆発的にいいモノとなることも
不確実性であるからこそのリスクが災いして一瞬で駄作となることも
両方の不確実性を許容しなければならなくなる。
これはリスクを嫌う”一人の人間”には絶対に出来ないこと
”一人のアーティスト”にしかできない。
また、
完全即興作品が披露出来るようになるまでには
①のカッチリ作品を仕上げる過程をしっかりと踏み
作品を人に披露する経験を相当数積む
これが絶対に必要不可欠となる。
理由は「①の過程をリアルタイム進行するのが完全即興だから」
①の過程をしっかり踏むことなくポーズだけで即興していると
必ずそのツケは来るもので、後で大変なことになる。
年数だけは経っているけど、「作品が作れない」ダンサーになる。
キャリアの中でたとえ日々ダンス技術を磨いていたとしても
人に披露できるのは作品ではなく「インスタントな踊り」でしかなく
そして下手に年数だけは経っているので「プライド」というものも出てくる。
なので、初心者がやっているようなカッチリ作品を作る過程を踏む、
なんてことを今更したがらない。
その結果、「作品が作れない」ダンサーのままキャリアを積むこととなる。
これはものすごく悲惨なことである。
「インスタントな踊り」というのはあくまでもインスタントなので
人の記憶に強烈に焼き付く、作品のチカラを持つことなく
インスタントな踊りとして、消費されて終わる。
表現者として、自分の表現物が消費されるものでしかないというのは
非常に残酷である。
しかし、残念ながら「作品が作れない」ダンサーが完全即興をした場合
やはり、消費物となる。
そうならないためにも、①の過程を踏むというのは極めて重要となる。
そして
完全即興を「作品」として魅せることが出来るようには
なにより、
「自分のダンス」が「魅せる状態であるもの」でなければいけない。
①のように事前にカッチリ作り込む作品であれば
細部の詰め、微調整、なんかは時間をかければいくらでもできるけど
完全即興作品をやるときに、そんな時間はない。
常に時間は進んでいき、オンタイムで作品が仕上がっていく。
だから、「自分のダンス」そのもののクオリティーを死ぬほどあげておく
これが絶対に必要となる。
一瞬で微調整が出来る、「表現力=技術力」
その表現力が「客がお金を出して観たいものである」こと
ここまで引き上げておかないと、「作品」にはなりえない。
なので日々のダンスの技術鍛錬をかなり高い状態で行わないと
完全即興で出来る状態とはならないこととなる。
「何事も10年やって一人前」だと、よく言う。
ダンスも同じで完全即興作品が出来るようになるのは
10年ぐらいの年月を要する。
自分は作品作りが超得意だったので①と②両方得意だったんだけど
②の完全即興作品のときは「完全にゾーンに入る」
だから自分だけかもしれないけど
「何をやったか一切覚えていない」のが普通だった。
ゾーンに入るというのは「無の境地」になることで
集中力が極限までに達するとこういう状態になる。
そのゾーンに入って、何をやったか覚えてはいないけど
終わった瞬間に、客がドッと沸く。
これは「完全即興作品」ならでは。
後でビデオ確認して「あーそうだったんだ」と詳細を知るという
不思議な現象が、自分だけは起こっていた。
完全即興作品はダンスのあらゆる面を磨きに磨いて
時間をかけた先にしかないもの
だからこそ、稀少価値がとても高い。
その作品が出来るリアルダンサーがかなり少なく稀だというのも
完全即興作品が披露できる場所が少ないというのも
非常に残念ではあるけれども
もしも機会があれば観てみるとむちゃくちゃ面白いと思う。
ホントの生のダンスLive
非常にエキサイティングかつスリリングなもので、
かなりヤバイものである。
拙い文章お読みいただきありがとうございました。
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