本日は母上さまの生誕祭。 毎年、彼女の大好きなアップルパイとブラックコーヒーを供える。 気づいてみれば20回目だった。 親父もいなくなった実家の仏壇に、母の日も近いのでカーネーションも。 かーちゃんだけに供えると、俺の分は?って声が聞こえそうなので、お供として親父にはシュークリームを。 洗い物出すのも嫌なので、紙皿で?と一瞬思ったが、 お前なあー(呆)って言われそうなので、ちゃんと皿に出した。 (そういうとこはうるさい親父だった) 今日はこのうちに引っ越してきてから30
兄はアルコール依存になって家庭が崩壊した。 依存になった理由は元兄嫁から聞くのと兄から聞くのとでは全然違った。 正直どっちに原因があってもいいんだけど、結果として兄がSOSを出したのはずっと険悪な仲であった父であり、実家だった。 父は兄のそれまでの態度に相当怒っていたのに、結局は親の愛情なんだろう、実家に住まわす事にし、あれこれと世話を焼いた。 それでも兄は何度もスリップをし、実家でも問題を色々起こし、最終的には専門医療機関に入院になって更生した。職を失わなかった事が奇
去年の夏、親父が闘病を終えた。 前日の夜、おやすみ前にお顔拭きましょうかーって看護師さんが部屋に入ってきて、お嬢さんやってみます?って言われるので、ああ、じゃあ…といって熱いおしぼりを受け取ってふぁさふぁさ振って冷まして、その一挙一動を目で追う親父の顔にニヤリとしながらバフっとした。 少し軽めに頰に暖かさを伝えて、おでこや頬を押さえるように拭いていたら、向かいに座ってた兄が突然笑う。 お父さん、何笑ってんの? 局所しか見てない自分は、親父が笑ってるなんて気がつかなかっ
前の投稿をしてからひと月後、友人の勧めもあってホスピス外来を受診し始めた親父。 受診の条件?が、もう完治を目指さないということで、投薬等の癌治療をやめるというものだった。思考も意思もハッキリと自我のあった親父なので、私は一切の決定権を親父に委ねた。あるいはそう仕向けた。 それは、自分が人の、ましてや親の人生を決めることから逃げたかったのかもしれないし、最後まで親父自身の判断を尊重したかったからかもしれない。 初回の受診後、帰りの車の中で、「なんかスッキリしたわ。それに、これ
親父が老いていく。 ここ数ヶ月で急激に老いた。 様々な不調を抱えながらも、未だに40代くらいの時の自分と比べているのだ。腕がしわしわになってきた、だとか、いつも探し物をする、とか、すぐ疲れちゃう、とか、彼の自分に対する不平不満は枚挙に遑がない。 時々テレビに出てくるようなマッチョ老人になろうとなんて努力のかけらもしてこなかったんだから、体力が落ちたりちょっとした記憶の抜け落ちなんて起きても仕方がない、と娘としては思っている。 だが、本人はいたって大真面目に凹んだり情けな
GWのど真ん中あたりに母の誕生日がある。 生きていれば79回目。 きっと、「よ!80にリーチ!」とか「さよなら70代だな!」とか からかい混じりな言葉をかけて彼女をキー!って言わせていたと思う。 緊急事態宣言だぞ、不要不急な外出はやめろ、とはいってるが、 川向こうの実家の仏壇にアップルパイを供えに行くのは、その日であるべきだし、彼女の誕生日に好物を持っていく、というのは不要な事象なんかじゃないな、という判断を下してみる。(もちろん感染対策はする) ******* アップ
ブレないココロを持つことは簡単だけれど、 持ち続けるのはとても難しい。 自分の望むようにだって生きられていないのに、 人の求めるようになんて生きていくのはもっと難しい。 手に入れたいものがあった時に、 自分の感情を抑えてまでもそれが欲しいのかと自問自答する。 自分が揺らぐ瞬間は、ふとした瞬間にやってくる。 予感が確信に変わる瞬間だ。 その黒い波に飲み込まれないように、 その妄想に取り憑かれないように、 足掻けば足掻くほど、振り払えず絡み取られる。 「言葉」は喜びにな
こんにちは。ちょまです。 早期退職してあっという間に1ヶ月。 noteを始めた時、どーせ毎日は書かないんだろうけど、 もうちょっと文章書くのかな、と思ってた。 中途半端な下書きばっかり量産して、一晩たつと、なんとなく 公開するような文章じゃないな、と思って塩漬けになっている。 コンスタントに書くのってなかなか難しい。 ーーーーー 1月はなんだかんだと去年からの流れの仕事が3本あって、 しかも、やりたい放題のクライアントとそれにハイハイ、と応える代理店&制作部、のシリーズ
どーも。ちょまです。 明けましたね。おめでとうございます。 既に新年も4日目。 正式に会社員じゃ無くなって4日目。 なんか、こう、落ち着かない(苦笑) (元同僚が今日からの出勤を嫌がってるメッセが入るせいもある) 国民年金だとか健康保険だとか、退職後に手続きしなけりゃいけないものをとりあえず今日はやってきた。 20代、渡米する前に会社員じゃ無くなった時ってどうしたんだっけ? こんなことしたっけ?と区役所に向かう道中考えた。 おそらく、健康保険は扶養に戻らせてもらった(
流浪が多い人生だったので、15年も同じところにいたことはなかった こんなに長くいるとは思わなかった もっと早く辞めてると思ってた なのに今は辞めることに現実味がない ** 不満も多かった 何度もあちこちに噛み付いた 生意気にも上司に怒鳴り散らした事さえある 用意周到に外堀埋めた提案して、上司にてめえ!って言われた事もある 後輩を泣かした事だってある 自分が泣かされた事もある 楽しい仕事ばかりじゃ決してなかった クライアント試写で揉めて それって企画の
出社する最後の1週間が始まった。 今年のクリスマスは、会社員装備の返上儀式。 RPGで途中のダンジョンまで行ったけど、データ消失でもう一度キャラクターの名前をつけるところから始めなきゃいけないみたいなものだ。 自分の痕跡を消す作業は8割方終了していて、同じように早期退職で出て行く人の片付けを手伝ったり、社外の方たちにも連絡したり、ご挨拶したり。 あまり現実味がないな、と思っていたのだけれど、 マシンルームでこんなにテープデッキに囲まれることも、 こうやってBCT-6SR
推しのライブ先行抽選が外れた時のヲタ仲間との会話 友「雑誌の方でも先行あるといいな」 ちょま「退職金で買い占めてやる」 友「見せてもらおうか!退職金の性能とやらを」 ちょま「こ、こいつ…払うぞ…」 友「自分の力で買ったのではないぞ。その退職金の性能のおかげだということを忘れるな!」 ちょま「49とは違うのだよ!49とはっ!」 今日もアラフィフは平和です。
どーも、ちょまです。 7月に早期退職者制度やりますの発表があり、 10月頭に説明会があり、面談開始。 11月は応募期間。 希望した全員を退職させてはあげないよ、という トリッキーなやり方だったので、 可否決定が出るまではどうなるかわからなかった。 ついでに言うと、あたしの場合は 「エディター引退の上、異動 or 早期退職」という2択だった。 面談の時に、 「これってさ、早期退職希望して却下された人どーなんの?」 と、聞いたら、 「異動するか、加算金無し自己都合退職するか
いつか行ってみたいなあと思っていた鹿島神宮に行ってきた。 編集室の週間スケジュールを決めていた時に、どうもうまく自分がはまっていかなくて、めんどくさくなったので有給をぶち込んで体裁を整えてみた。降って湧いた(いや、湧かせた)平日のおやすみ。 何かする予定があったわけではないので、どーしよーかなーと思って帰り道に、ネットニュースを見ていたら、生まれもった属性とやらの記事が出てた。で、どうやら鹿島神宮は相性がいい神社らしい。今年に入ってからなんか行きたい場所だなーと思っていた
あたしには開頭した傷がある。 おでこの正面から左耳の真ん中くらいまでの髪の生え際にぴゃーっと。 2年半前に頭痛で起こされる日々が続き、乱視のせいじゃないよなっていうレベルで、見ている像が、Y軸方向にオフセットがかかり、ローテが反時計に10度くらいかかるようになった。流石に仕事にならなかった(苦笑) そりゃそーだ。あたし、映像の編集やってるんだから。目は商売道具。 撮ったMRIの画像を見て、若い担当医師は「なかなか派手(笑)」とのたまってくれた。素人目にもわかるレベルで左
アニメのSHIROBAKO。 見るのはもう何度目だろうか。 見るたびに、色々と考えさせられる。 良いものを作りたいっていう純粋な気持ちとか、仕事に真摯に向かう事とか、憧れの世界に入って右往左往することとか。 プロフェッショナル達のぶつかり合いとか、新しいものとの共存とか、コミュニケーションの大切さ、とか。 締め切りがあるから、この作業はここまででって決められるだけであって、時間の制約さえなければ、いつまでもこねくりまわせる気もするのだ。 でも、編集やってて、 一番最