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「書く」ことと「公開する」こと〜noteの街の過ごし方

創作とは
決して出会うことのない
誰かへの手紙

なぜ書くのか

それは
過去からの
《彼ら》からの
手紙を ある日
受け取ってしまったから

私のことなんて
知らないはずなのに
なにもかも知ってて
素知らぬふりで
送りつけてきたのかと
天を仰ぐくらい
心に響く手紙

お返事は届かないと
知りながら書いてみる

そして、
果ては宇宙までつながる小さな川に
そっと浮かべる

それが私のnote



でも私たち、いつかどこかですれ違ってた気がするの
でなければ、こんなになつかしい気持ちになるはずがないもの

だから
こう言い換えましょう

創作とは
決して*再会*することのない
誰かへの手紙

私には知りようがないけれど
もしかしたら
届くのかもしれない...
星の汀にいる
あのひとのところへ





🌿 はじめに


①なぜ「書く」のか。
そして、
②なぜそれを「公開」するのか。

 SNS全盛期の今、このふたつはほぼイコールになっていると思います。でも、実際これらはかなり性質の違う事柄。

 これについて考えてみたくて、記事を書き始めました。

 きっかけをくださったのは、noterくりすたるるさん。

 先日、くりすたるるさんが、私のつぶやきを紹介してくださいました。
 るるさんらしいキラキラした心優しい記事のテーマが、「書くこととは」「noteとは」という本質的な問いだったのです。


 素敵な記事に、アンサーソングをお贈りさせてください(^^)/


🌿 「書くこと」「公開すること」を区別する理由



 いつも学ばせていただいている芸術人類学者・中島智さんのXから引用します。

 中島さんのポストは、非常に濃縮度が高いため、初めて読むとちょっと難しいように思います。ですので、私の理解を順にご説明します。

「見せたい」という欲動は社会的、対人的である
  →②「公開する」ことに関わる。

「見たい」という欲動はより根源的である
  →①「書く」ことに関わる。


 「見たい」(①)というのは、たとえば、物語の執筆がわかりやすいのですが──初めにストーリーを決めていたとしてもその通りには進まず、登場人物が勝手に行動し始める段階というものがあり、その先を「見たい/読みたい」から書く、ということ。
 エッセイならば、書くうちに新しい視点に気づいて、「私ってこう考えていたのか」と新鮮な驚きを感じる、そんな体験のことです。
 書かなければ、その先を読むことができない。誰も書いてくれないから、自分で書くしかないのです。


 「見たい」(①)が〈生〉そのものの欲動である、と書いておられるように、中島さんは「創作」という非人間界とのつながりを、常々、重要視しておられるようです。
 それは、こちらのポストにも表れています。(私などは「芸術」なんておこがましいので「創作」と読み替えていますが...(^^ゞ)

↑このポストは3つセットになっていて、どれも唸らされる内容なので、ぜひタップしてお読みくださいませ。

 ここで、この①「見たい」がゆえに創作する、について、谷崎潤一郎が説明するとどうなるか、という例を引いておきます。こちらもなかなかの弁舌です。

正しく視ること、深く感ずること、美に憧れること、想像に豊かなること、 ──此れ等も藝術家げいじゅつかとしての要素ではあるが、同時にそれらの結果を何等かの形にいて生み出さうとする創作よくが伴はなければ、藝術家にはなれない。一と口に云へば感ずる力と生み出す力と、此の二つがどうしても必要である。しかも此の二つは別々のものではなく実は一つの力であつて、感ずる力が強ければ強いほど其れを生み出さずには居られなくなり、生み出す力が働けば働くほど感じがハツキリと生きて動いて来る。故に藝術家に於いては、感ずることが生み出すことであらねばならない。生み出すことが感ずることでなければならない。歌はずに居られなくなつて歌ひ、描かずに居られなくなつて描きつゝある間に、歌ひ或は描きつゝある美の形がだんだん明瞭になり、それに対する感激がますます高揚して来るのを覚える、──さうして実に其の時こそ、藝術家の魂が永遠の世界に翺翔こうしょうする瞬間であり、彼の全生命が無限の歓喜に浸される刹那である。生み出すことの歓びを知らないで、どうして藝術家たるの資格があらうぞ!
私はこゝに繰り返して云ふ、──藝術家は常にその憧れの対象たる美の幻影を脳裡に描いて居る、が、それを生み出すところに藝術家の真の生命があり、生み出す時に始めて、彼はその美をハツキリと感じ、正しく視、完全に自分の物とすることが出来る。生み出す迄はまだ其の美をほんたうに掴んでは居ない。

谷崎潤一郎『藝術一家言』より


🌿 私にとっての①「書くこと」


 さて、その① 「なぜ書くのか」について、拙いながら1年前に考察をしておりました。
 中島智さんのTwitter(現X)から学んだ内容を、整理し、記憶に留めるためでもありました。
 のちに、なぜだか中島さんご本人のお目に留まってTwitterでご紹介下さったことから、note内外からのビュー数が、こぢんまりとした私のnoteではあり得ない桁数になり、それ以来「アクセス状況」で堂々の第一位をキープしております。たぶんずっとこのままなのでは...。
 注目され、うれしいのか怖いのかよくわからなかった出来事でもありました。


🌿 なぜ②「公開」するのか

 こちらについては今もって理由がよく分からないままです。

 SNS ですから、「交流」という要素が大きいのはその通りです。みなさまの記事を拝読し、それぞれに個性的な世界観にふれると、ひとりひとりがかけがえのない存在であることが実感され、出会いに感謝します。スキやコメントを通じて、新しい気づきを得たり、共感の輪の1パーツとしてみなさまとつながれるのはうれしいものです。

 ただ、私の場合はその好ましさを打ち消してあまりあるほど、自分の書いたもののなかに現れる自分自身を人目にさらしたくないという忌避感(羞恥心や恐怖心)が強いので、心安らかにnoteをできたためしがないのです...。
 それらの長所短所が仮にプラスマイナスゼロとしても、プラスもマイナスも振れ幅が大きいから、車でたとえると「止まっている」だけなのに、アクセルとブレーキを全力で踏んでいるような状態です(苦笑)

 これについては、SNSがどうのというより、もともと「物陰にかくれていたい」性分なので、如何いかんともしがたいところではあります。
 SNSなら、物陰に隠れたままでよさそう...と思って始めたのに、実はまったくそうではなかった...というところは、実際大きな誤算でした。リアルな付き合いとは違って、心の中や精神性、人間性(だけ)が裏表あわせて見事に表れるのに、怖くないわけがありません。ここから先は、人付き合いが好きかどうか、世界を/みんなを信頼できているか、という話になってくるのでしょうね。自己効力感も関係していそうです。

 たとえば、「安全のため横断歩道を渡りましょう」というつぶやきを投稿するのであれば、私の内面はほぼ表れませんから、あまり怖くはありません。ですが、書き手の私も読み手のみなさまも、ずいぶんつまらない思いをするでしょう。そう考えると、noteのコミュニケーションというのは、現実のつきあいよりずいぶん「深くて濃い」ものということになります。読み応えのある記事を目指すと、自然に、アクセル・ブレーキの踏み込みが深くなっていきます。自分の許容範囲との戦いということにもなってきます。

 リアルな会話とは違って相手の表情が見えないので、SNSでは常に、"いつしか内面を告白しすぎてしまう"ことになるのは、アンデシュ・ハンセンさんが『スマホ脳』で述べておられる通りです。(↓でもこれ、古今東西の文豪たちがしてきたことと質的に同じよね…?「作家は精神のストリッパー」なんて言い方もされますし🤔)

手薄になる自己検閲

 フェイスブックに投稿してしまって、つい多くを語りすぎたと後悔した経験はないだろうか。それはあなただけではない。私たちはSNSを通じて、より多くの人とコミュニケーションを取るだけでなく、より多く自分のことを話している。相手の姿が見えないからだ。複数の研究によって明らかになったのは、対面で話すにはプライベート過ぎると思うようなことまでネット上ではいとも簡単にシェアしてしまう。おそらくこういうことだろう。誰かが目の前にいると、私たちは自分の行動を制限できる。相手の表情や身振りが目に入るからだ。「あれ、なんだか信用していないような表情だな。これ以上言うのはやめておこう」というように。ところがフィードバックをもらえないと自己検閲は機能しない。そのため、実生活では3人にも言えないようなプライベートなことをフェイスブック上ではやすやすと300人に語れてしまうのだ。

アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』より


 そのうち私が「歩行者優先です」などと投稿し始めたら、(相当こじらせてるな...)と思ってください(笑)


🌿 ②についてのもうひとつの原動力〜結び


 それでもなおnoteを続けているわけですから、きっとなにか自覚できない原動力があるはず、と思うわけです。

 うっすらと思い当たるのは、冒頭に書いた謎めいた文言のように、「ネットという果てのない時空につながる小さな川に、お返事の手紙を浮かべれば、届きそうな感じがするから」ということになるのだろうと思います。


 くりすたるるさんも書いておられましたが(るるさんのすごいところは、書かれた内容がありありと、しかも柔らかく伝わってくるところです)、創作する理由、公開する理由は人それぞれ。愛があり想いがあり、悲しみがあり憤りがある。そのやりとりをする場だからこそ、私も含めて「noteって...」と時に真剣に悩むことになります。それも含めてまるごと味わうのが正解なのかな、とも思いつつ、非常に荷の重いことでもある。
 なんだか、SNSを超えて、拙い人生論でも述べている気分になってきました...。

 noter様方ともしいつかお会いすることがあるなら、それは現実の世界では不自然で、メタバースのほうがふさわしいだろうと思います。それくらい、生身の私と《noter星の汀》は別人になったように思えるからです。たぶん、生身の私に会っても、《汀さん》に会ったことにはぜんぜんならない。《代理人》か《執事》あたりでしょうか。
(メタバースでさえ、やっぱり物陰に隠れたまま、出て行かないかもしれませんが...)


 《もうひとつのlife》をnoteの街で過ごすなら、それが濃密であるのは喜ばしいことなのでしょう。ちょっとおこがましいけれど、古今東西の文豪たちが太くて短い人生を送ったのを、ほんのちょっぴり追体験しているのかしら、とも思えてきました(◍•ᴗ•◍)✧*。


 またいつか、noteを続けるみなさまのお心持ちを、どこかでお聞かせいただければうれしいです。



↑「あの投稿にいいねがついたかもしれない」と、何度もスマホに手を伸ばしてしまう──SNSでダメージを受けやすいのはどんな人?──集中力が落ちてきた──スティーブ・ジョブズApple創業者が実子のスクリーンタイムを厳しく制限し、ビル・ゲイツマイクロソフト創業者は子どもが14歳になるまでスマホを持たせなかったのはなぜ?──"神経質で不安定なほうが生存には有利"と言われても...。
 ──進化生態学の見地も踏まえ、スマホに支配されてしまう脳の仕組みを解説し、処方箋を提示してくださる良書です。

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