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『人生論ノート』ー成功についてー(「出世競争」について思うこと)
あなたは自分の前任のその後のキャリアを調べて、自分のこれからのキャリアを考えたりしたことはありますか。私はあります。そんな他人のキャリアを見て自分のキャリアを思い描く姿勢について三木清は人生論ノートでこのように述べています。
純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合成功主義と結び附いている。
だれかのあとをトレースしたからとて、どう「出世」するかは予測がつくかもしれないけれど、何を幸福に感じるかは人によって違うので、あんたの幸せとは関係ないよと時を超えておっしゃられているようです。
また、似たようなキャリアの人がどのくらいの期間で昇格したとかを気になりますか。わたしはなります。さて、出世の速さは成功の類いに属するか?あるいは幸福の類いに属するか?考えるまでもないことかもしれませんが、三木清は人生論ノートの中でこのように言っています。
幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。
出世の速さは一般的で量的なもので、人格的な、性質的なものではないから、成功の類いに属しそうです。出世のスピードの他にも、年収も、出身大学の偏差値も、地位も、100mのタイム、「スキ」もすべて数えられる量的なもの。「成功」とは関係するけれど「幸福」とは直接的に関係しない。
では、こういった量的なもの、「成功」に関することばかりに目が行っているような人間について、人生論ノートの中でどのように言っているか。
成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐(あわ)れむべきである。
時を超えて憐れまれてしまったようです。さて、三木清は成功を追求することは全くネガティブな行為としてとらえているか。人生論ノートの中ではこのように表現しています。
一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。
スポーツ。まさに「出世競争」。成功を求めるために行う競争がフェアの精神と相手へのリスペクトをもちながら行えば、こういった競争も健全なものということなのかもしれない。
逆を言えば、ライバルを不当な手段で追い落としたり、勝者に嫉妬するようでは健全な競争とは言えないし、閉鎖的な社会で長い間そのような競争を行えば、「成功」を求めるそのような競争が堕落しないことはまれだと思う。であるのであれば、そのような「出世競争」に熱を上げすぎるのは労力の無駄だと言える。
とはいえ、そういった「出世競争」に全く無関心でもいけないらしい。
幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている。だから、他人からは彼の成功と見られることに対して、自分では自分に関わりのないことであるかのように無関心でいる人間がある。かような人間は二重に他人から嫉妬されるおそれがあろう。
年齢相応にそこそこ上がっているあんまりそういったことに無関心な先輩のことを、優秀なんだけれどちょっと上がりの遅い同期がいろいろいってくる。そういうことなんだろう。結局、「善く隠れる者は善く生きる」ということなんだと思う。生きるとはめんどくさくかつ難しいしいものだ。
参考 幸福について