竹田青嗣先生「私の哲学遍歴──マルクス、ポストモダン、そして現象学へ」視聴報告をドラッカーにつなげてみた
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
今回は、タイトルにもありますように、NHK文化センター梅田教室、ならびにオンデマンド配信で行われた早稲田大学名誉教授・大学院大学至善館名誉教授 竹田青嗣先生による「私の哲学遍歴──マルクス、ポストモダン、そして現象学へ」の視聴報告となります。
ただ、受講規約を見ますと、「SNSを含む他の媒体に講義内容を転載すること、また講座で配布した教材を受講目的以外で使用することは著作権・肖像権の侵害になりますので固くお断りいたします。」とありまして、後半はともかく、前半の「SNSを含む他の媒体に講義内容を転載」というのが、どこまでが許される範囲なのかがまったくわからないので、先生の話をそのまま書く、というよりは、自分がその話を受けてどう解釈したか、ということを中心に記載していこうと思います。カルチャーを標榜している割にはかなり偏狭ですね。困ったもんです。
この講座の紹介文はこちらです。
傍観者の冒険
竹田先生は在日韓国人の二世だそうです。お話をお聞きしていて、ここがかなり重要なポイントだなぁ、と思いました。『〈在日〉という根拠』(1983年)という文芸評論本でデビューされたこともあり、社会に所属していながら外部性も保持しているという視点が、ドラッカーにもつながるなぁ、と思いました。
ドラッカーは、まさにそのものズバリの『傍観者の時代』という書籍を出しており、この原題が、”Adventures of Bystander”となっています。傍観者の冒険、ですね。この本の冒頭にこのような記載があります。
別の部分では、傍観者は人と違う見方をすることが宿命、とも書いてあります。ユダヤ系でドイツからアメリカに移住したドラッカー。在日二世で日本で思想家となった竹田先生。そこに同じような目線を感じてしまうのは偶然ではないのかもしれません。
マルクス主義とフロイト精神分析
さて、話を動画に戻します。20歳の頃、まずマルクス主義にハマった、というお話から始まります。いわゆる全共闘世代。資本家が搾取しているから貧富の差が生まれ、労働者が貧困に落ちていく、という実はマルクスは経済学の専門家でもないマルクスの思想ですが、まずは、若き竹田先生はこれにハマる、と。その後、神経症になったことをきっかけにフロイト精神分析学にハマっていきます。
竹田先生の面白いところは、ハマると徹底的にハマるようで、フロイトについてもどんどん学んでいった結果、最終的には納得できない。これは物語としては面白いけど、検証できない、という結論に達します。
そのとき、理論の普遍性と言うのはどのように決めればいいのだろうか、と悩んで、現象学にたどり着きます。
フッサールの現象学を読んで認識問題、つまりは「我々は正しく世界を認識できるのか?」という問題に出会います。この問題に対して「できない」とする立場のことを、相対主義や懐疑主義という言葉で、竹田先生は表現していました。
この立場に対して竹田先生は、それは困る、と考えられたようです。たまたまマルクス主義にハマる。たまたまオウム真理教にハマる。たまたまイスラム原理主義にハマる。そういう状況で「我々は正しく世界を認識できない」ということになると、思想には意味がない、ということになり、これは哲学の終焉である、と。
フッサール現象学
そんなときに竹田先生が出会ったのがフッサールの現象学だったようです。フッサールは、この認識問題(存在≠認識≠言語)を現象学で解いた、と言っているそうです。
ところが、竹田先生がこの現象学に出会った時代は、既にポストモダン全盛の時代。フッサールの考えは古い、と言われていた時代だったそうです。相対主義者は現象学を「真理主義だ!」と批判しますし、ハーバーマスやラッセルなどの合理的客観主義者は「主観主義だ!」と批判していたそうですが、この人たちは全く現象学を理解していないように見えるのはなんでなんだろう、と竹田先生は悩んでしまいます。
その後、30代半ばで文芸評論でデビューした竹田先生は、40代半ばにある大学に招聘され、そこから哲学や思想を教えだし、自分の中に残っているマルクス主義の問題も、現象学の問題もカタをつけたい、と思ったそうです。
ここまでのお話を聴いて、自分の個人的な話とつながる気がしました。もともと書店員からインターネットバブルの時代にオンライン書店に行き、その後、コーチングの実践と研究で生きてきた自分が、なぜか「非営利組織の経営」という科目で非常勤ではありますが大学の先生デビューをしまして、そこで、コーチングと非営利セクターの問題を整理し統合して人に伝えたい、という欲求が生まれています。これはとても面白いことのように思えています。
さて、竹田先生の話に戻ります。
ポストモダン思想(デリダ・ドゥルーズ・フーコー)
竹田先生曰く、文学的素養のある3人、だそうです。個人的に竹田先生の視点の面白いところは、もともと文芸評論から入っていますので、哲学や思想のテキストに対して、その言説がレトリックという文章のうまさで成り立っているのか、思想的厳密さで成り立っているのか、そこを見極める目を持っている、というところです。
竹田先生曰く、ポストモダン思想というのは反マルクス主義であり、哲学的相対主義である、と。ここで面白いのは、この時代に竹田先生が盟友と呼ぶ西研さんと出会い、お互いにフリーな時間もあったということで、哲学の勉強を2人でし始めたそうです。そうしてずっと勉強していてわかったことは、ポストモダン思想家たちは、実は近代哲学をほとんど勉強していないな、ということだったそうです。
そこでポストモダン思想にもちょっと醒めて眺めてみると、マルクス主義も反マルクス主義のポストモダン思想も、語っているテーマは同じようなことであることに気づきます。曰く、反国家、反権力、反資本主義である、と。
ルソー、ヘーゲル、ニーチェ
ここで時代が遡ります。まずはルソーの二つの課題を原理という形で示されます。人間は死の概念を持っており、相互不安により戦争が起こり、権力による支配構造を産んでしまいます。(支配層15%、被支配層85%という数字は、過去から現在までありとあらゆる社会でだいたい一致している、と言います。)このホッブスの考え方に、ルソーは社会契約と一般意思により、万人の自由を確保することができる、としました。これが原理と呼べるのか、と竹田先生は問いかけますが、竹田先生曰く、これ以外の原理は存在しない、という意見をもっておられるようです。
ここで問題なのは、マルクスがルソーの思想を否定するのであれば、この原理を否定しなければならなかったのですが、そもそもマルクスはルソーを読んでおらず、結果として、マルクスの思想には「自由」を確保するということが漏れており、結果として共産主義は支配の構造を再現してしまって終わった、というのが竹田先生の見立てでした。
続いてヘーゲルですが、竹田先生曰く、ホッブスとルソーの思想を完成させたのですが、書いていることが難解で、読んでもよくわからないのが問題である、と。
ヘーゲルの「精神現象学」の思想を簡単に言うとこうなります。人間が自由であったことなど、過去において一度もない。支配層ですら、常に闘争に駆られており、自由ではない。だが、人間は常に自由を求める本性を持つ。この自由とは、可能性を求めるという意味での自由である。長い歴史を経て、人類は気づく。結論から言えば、人間が自由になる原理は「自由の相互承認」しかない。
ちなみに、この「自由の相互承認」は、ヘーゲルの文章では「相互承認」だけだったのですが、それではわかりにくいので竹田先生が翻訳の際に「自由の」を付け加えたそうです。素晴らしいお仕事ですね。
ニーチェはポストモダン思想家からも好まれていますが、その実際は相対主義者ではない、と竹田先生は言います。竹田先生曰く、ニーチェの思想の根幹は、我々ひとりひとりにとっての世界がまず生成され、その共通項としての世界全体=「本体」が想定される、というこれまでの考え方を逆転させた考え方にあるそうです。これを「存在」から「生成」へ、というタイトルで竹田先生は語られました。この考え方は後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの考え方と同じ世界観だそうです。
再び、フッサールの現象学
ここで現象学の自然的態度と現象学的態度の話があります。この話は、先のニーチェの思想と同じような話が、別の用語で語られます。現象学の「認識問題」への結論は、これまで我々が客観認識と呼んでいたものは、共通了解していたものを指して呼んでいたのである、というものです。この確信成立の構造を捉えるのが、現象学の手法であり、これを現象学的還元、と呼んでいるそうです。
欲望論
さて、竹田先生の主著は現在も刊行途中の欲望論ですが、これは、現象学にひとつだけ要素を付け加えたものである、ということです。それを一言で言うと、「あらゆる対象認識には情動所与がつきまとう」ということだそうです。価値の感覚について、フッサールはあまり触れていないが、重要である、という主張で、これで初めて「本質」を認識できる、ということでした。
もう少しだけ説明を加えると、これは「事実の認識」と「本質の認識」を分けよ、ということになります。例えば、社会を認識する場合に、社会というのは実体がありませんので、「事実」として認識することはできない。そこで、どんな社会が良い社会なのか、という価値を加えて認識することになり、それが「本質」による認識として考えられる、ということです。
この考え方を元に、竹田先生は人文領域の本質学というものを構想されており、これが実現することにより、価値観の違いを超えて、普遍認識を持つことが実現され、様々な問題が解決される方法論が見いだされるであろう、ということでした。
ここまでの話をドラッカーにつなげてみる
ここまで竹田先生のお話を聴いていて、個人的にはドラッカー思想との共通点の多さにびっくりした、というのが私の感想でした。特に驚いたのが思想遍歴です。例えば、マルクスとフロイトについては、ドラッカーはそれぞれ著作で触れています。
例えば、ドラッカーのほぼ処女作である『経済人の終わり』には、このような記述が存在します。
これは先のホッブスの言う権力による支配構造から逃れられなかった、ということを意味しています。
そしてフロイトについては、このように書いています。
まわりくどいですが、フロイトの精神分析は純粋な科学ではなく、文学だ、と言っている点が、一致していますね。
ドラッカーの面白いところは、一方で当時の科学についても批判的な見方をしており、一緒にされたくない、というような発言をしているところです。
ドラッカーは、自らの仕事を社会生態学と称してました。日本語にすると社会生態学は学問という風に見えますが、当のドラッカーはこう言っています。
いろいろ否定しまくっていますが、ドラッカーは自分の仕事が学問とか科学という名のもとに「古典」化し、人の認識や行動を変えないものになってしまうことを嫌がったように見えます。
それって哲学じゃん!
というのは前回のこの記事で書いたことです。
ということで、今回の記事はこの辺で。次回は、ドラッカーとリベラルアーツ、というテーマで展開したいと思います。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。
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