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《大学入学共通テスト倫理》のためのエトムント・フッサール

大学入学共通テストの倫理科目のために哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。エトムント・フッサール(1859~1938)。キーワード:「現象学」「事象そのものへ」「エポケー(判断中止)」「ノエマ・ノエシス」「生活世界」主著『論理学研究』『イデーン』『ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学』

これがエトムント・フッサール

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ユダヤ系のオーストリア人(ドイツ人)で、高校時代は「数学以外は全く興味がない」ため他の科目の成績は著しく悪かったそうです。はじめ数学者を志していた彼は、ウィーンで後の師となるブレンターノの講義を受けて感銘を受け哲学を(マイノングらと)学びます。晩年は国際的な名声を得ていたものの、ナチス・ドイツの取締令の下で不遇を託ちます。大学を追われ、大学構内の立ち入りも国際会議のための出国も許可されない状況に置かれ、彼は自宅で4万ページにもおよぶ大量の手書きの速記原稿を書いています。これらはベルギーのルーヴェンにフッサール文庫として大切に保管され、現在もフッサール全集(フッサリアーナ)に加えられています。

📝フッサールが彼の学問対象にロック・オンした記述がこれです!

理性的にもしくは学問的に判断するということは、ところで、事象そのものに準拠するということであり(略)思いこみを捨てて事象そのものに立ち帰り、事象をその自己所与性において問いただし、事象に無縁なすべての先入見を排斥することにほかならない。(『イデーン1-Ⅰ 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』(E. フッサール著、渡辺二郎訳、みすず書房)p102から引用、ただし「事象そのもの」についた傍点を略した)

これがフッサールの「事象そのものへ!」。この現実が何かをがっつり言い切ることを目指し、物語るのではない真なる世界の記述をおこなう哲学をフッサールは求めました。ちなみにこの「事象そのものへ!」はキャッチ・フレーズのような現象学の有名文句です!

📝「先入見を排斥すること」もフッサール現象学の大特徴です!

眼前に与えられている客観的な世界についてどんな態度決定することも(略)存在について態度決定することも、このようにすべて差し控えること(略)「現象学的な判断停止(エポケー)」あるいは「括弧入れ」――は、私たちを無の前に立たせるわけではない。(略)むしろまさにそのことによって、あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が(略)自分のものとなる。(『デカルト的省察』(フッサール著、浜渦辰二訳、岩波文庫)p48から引用、ただし「判断停止」のルビ「エポケー」をパーレーンに送った)

これがフッサールの「判断停止(エポケー)」。事象の分析にあたって本気で先入観を廃する姿勢です。「判断停止(エポケー)」は「事象そのものへ!」と並ぶ現象学のキーワードでしょう。

📝「判断停止(エポケー)」をもうちょっと見ましょう!

世界を普遍的な自己省察において取りもどすために、まず世界を判断停止(エポケー)によって失わねばならない。アウグスティヌスは次のように言っている。「外に行こうとしないで、汝自身のうちに帰れ。真理は人の内部に宿っている。」(『デカルト的省察』(フッサール著、浜渦辰二訳、岩波文庫)p279-280から引用、ただし「判断停止」のルビ「エポケー」をパーレーンに送り、アウグスティヌスの引用文のルビ「ノソー・フォラス・イレ、イン・テ・レーデイ。イン・インテリオリ・ホミネ・ハビタット・ヴェリタス」を略した)

一切の先入観を廃し、自分が省察することによって純粋な生が得られるという現象学の「判断停止(エポケー)」は、哲学するものが己自身の思考によって真理を得る哲学の魅力が現代にあふれているでしょう!

📝フッサールが事象そのものをエポケーし掴んだ認識を☑しましょう!

∀まず、人間の意識をがっつり規定し新たな視点を投げかけます!

およそいかなる意識体験も、それ自身で何ものかについての意識である。(『デカルト的省察』(フッサール著、浜渦辰二訳、岩波文庫)p68から引用、ただし「について」の傍点を略した)

これがフッサールの「意識とは何ものかについての意識である」。見ること考えることなど、どんな意識もかならず「もの」や「こと」という対象をもつ。「何ものか」の部分も大切なのですが、「について」という何かにむかう志向を有しているところも同じくらい現象学には大切なポイントです!

「或るものについての意識」というものは、或るきわめて自明のものでありながら、それでいてしかし同時にこの上なく捉え難い不明なものである。(『イデーンⅠ-Ⅱ 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第1巻純粋現象学への全般的序論』(E. フッサール著、渡辺二郎訳、みすず書房)p164~165から引用)

これがフッサールの「意識とは何ものかについての意識である」の「について」の部分である「志向性」。つねに「何ものか」を向かう意識は、同時にそれをすでに把捉しているともいいかえられる。つまり、「何ものか」が意識の属性である側面にスポットが当てられます。ちなみに、自明のものに判断停止をしてその実相を捉えていく思考法を「現象学的還元」と呼びます!

∀彼にとって志向性の根幹にある構成はノエマ・ノエシスです!

志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持つ。(『イデーンⅠ-Ⅱ 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第1巻純粋現象学への全般的序論』(E. フッサール著、渡辺二郎訳、みすず書房)p250から引用)

これがフッサールの「ノエマ・ノエシス」。ざっくり言うと意識の「何か」担当のノエマと、「何か」という志向を可能とする働き担当のノエシスに分かれます。「両側面」で本質です。

ノエマ的相関者、それはここでは(きわめて広義において)「意味」と呼ばれる。(『イデーンⅠ-Ⅱ 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第1巻純粋現象学への全般的序論』(E. フッサール著、渡辺二郎訳、みすず書房)p188から引用)

これは「ノエマ」のちょい足し。物事の属性というより人間の意識の働きとの相関関係が前提とされています。

或る具体的な体験の統一の中で、幾重にも、もろもろのノエシスが、相互に積み重ねられており、したがって、ノエマ的相関者も同じく基づけられたものとなっているのである。(『イデーンⅠ-Ⅱ 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第1巻純粋現象学への全般的序論』(E. フッサール著、渡辺二郎訳、みすず書房)p126から引用、ただし傍点を略した)

これは「ノエシス」のちょい足し。「ノエマ」が認識する働きである「ノエシス」に基づいていると同時に、「ノエシス」も対象に基づいてこその運動ともいえ、さらに別種のノエマ・ノエシスとのからみも考えていくとものすごく複雑な変様のプロセスによってこの現実の意識が生まれていることが思考されています。(「或る~おり」、「ノエマ的相関者」の傍点を略しました!)

ということで、ノエマ・ノエシスの相関関係は、

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ノエマという意識の対象があるからノエシスが働くという要素と、ノエシスという働きがあるからノエマが産出される要素という相関関係だといえます。と書きましたが、『イデーンⅡ-Ⅱ』などのフッサールはノエマを割と仮象的と扱い、人間の意識の働きノエシスと、何らかの素材である質料(ヒュレー・下の語「形相」とともにアリストテレスやスコラ哲学用語)の組み合わせを根底的なものと扱っているようです。画像は、点(ノエマ)とそれに向かう直線(ノエシス)もともに一つの機構の内部にあるという感じのイメージを託し選びました!

📝フッサール現象学のすごみを主要二著から☑しましょう!

全体という形式、基づけによる統一という形式はわれわれには質料的なもののように思われた。(『論理学研究3』(エトムント・フッサール著、立松弘考・松井良和訳、みすず書房)p74から引用)

これがフッサールの『論理学研究』。『論理学研究』(略して『論研』)は論理的な範疇論が中心で、後半の方では「複数の志向性がどう綜合されるか」などの判断も含んでいるものです。引用でフッサールは事物の構成の規定である「形式」を形相的としてより、根底的な素材である「質料的なもの」として扱おうとしています。これはものすごい話。究極の本質を構成的でありモノ的でもあるという二重性において思考していると評せるでしょう。アインシュタインの「光量子仮説(光を波動と粒子の両方にふるまうものとして認める)」のように、直観においては構成に、還元においてはモノに見える超越の性質を構想している天才的な発想だと思います!

意識は、心理学的経験の所与、つまり人間的或いは動物的意識としては、心理学の客観であり、しかも経験科学的な研究においては、経験心理学の客観であり、本質学的な研究においては、形相心理学の客観である。ところが他方、括弧入れという変様において、現象学の中には、全世界が入ってくる。(『イデーンⅠ-Ⅱ 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第1巻純粋現象学への全般的序論』(E. フッサール著、渡辺二郎訳、みすず書房)p44から引用)

これがフッサールの『イデーン』。『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想(イデーン)』(略して『イデーン』)は、『論研』よりも「事象そのもの」に密着して現実の事象の解明として「ノエマ・ノエシス」の具体的なふるまいを精緻に考究しています。引用でフッサールは(平行的な)諸学を超えて、現象学だけが「何かについての意識」をもつわたしたちが現実のこの世界を生きる事実に直結しているありさまを記述できるとしています。フッサールにとって、他の学的解明は結局いくぶんかの「先入観」を繰りこんで現実のリアリティーを築いていると判断していることになるでしょう!

📝誤解を恐れずに言うと、彼のノエマ・ノエシス分析は未完了です!

ノエシスの学をわれわれはまだ所有してはいない。そうしたノエシスの学は、直観の諸側面においてもまた特有の思考の諸側面においても、認識の普遍的な現象学的本質が十分に広範に実行されたあとで初めて可能になるであろう。(『イデーンⅢ 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第3巻現象学と、諸学問の基礎』(E. フッサール著、渡辺二郎・千田義光訳、みすず書房)p32から引用)

このノエマ・ノエシス分析の未完了は、そのまま「事象そのもの」の哲学的解明を目指したフッサール現象学自体の未完了も意味するはずです。これもまたものすごい話。『論理学研究』4巻4冊『イデーン』3巻5冊などおよそ30年かけた明晰な分析を通じて、それでもまだ未完結を表明し思索を継続することは並大抵の誠実さや意志ではできないでしょう!

📝とりわけ『イデーン』や講義から感じる未決の格闘が凄まじいです!

解明のなかで常に新たな記述的問題が現れてくるが、それらはすべて、体系的に遂行されねばならない。(『デカルト的省察』(フッサール著、浜渦辰二訳、岩波文庫)p259から引用)

意識の志向性に「ノエマ・ノエシス」相関関係があること。この解明のためフッサールは哲学上の難問に次々と立ち向かいます。列挙すると、身体が心にどう関わっているかという「キネステーゼ(運動感覚)」。意識内容は何をもってリアルとするかの「充実」。同じ認識や現実を分かち持つことの「共同主観性/共現前」。フッサリアーナの1冊のタイトルである『物と空間』。ノエシスの根幹にある作動因として見定められた「内的時間」。単体でも十分哲学上の難問を現象学の記述上の問題として挑みます。『イデーン』や諸講義をひもとくと、これらについて明晰な判断を1行ずつ積み重ねているフッサールの格闘を見ることができるでしょう!

「哲学というものは、究極的でもっとも具体的な本質的必然性からの説明を要求する。」『デカルト的省察』(フッサール著、浜渦辰二訳、岩波文庫)のp245から引用

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志向性に含まれる究極的で具体的なひとつの超越によって、この現実の諸物を本気で解明しようとしていたフッサール。彼は哲学上の大難問に取り組んでいきますが、それは次々とおびただしい未完了の大問題を生み出していく果てしない道程でした。しかし、彼は絶望せずにそれに立ち向かいます。画像は、フッサールの好んだというデューラーの『騎士と死と悪魔』。敵がなにものであろうとも勇猛果敢に挑んでいく騎士が好きだったそう。この騎士のたたずまいはフッサールのひたむきな研究への姿勢をも彷彿させるでしょう!

📝彼の研究をフランス現代思想の担い手たちも情熱的に引き継ぎます!

われわれが知っていると信ずるところによると、この間主観的還元ならびにそれに関して立てられるすべての問題に、フッサールは大いに腐心したのである。(『叢書ウニベルシタス357 フッサール現象学の直観理論』(エマニュエル・レヴィナス著、佐藤真理人/桑野耕三訳、法政大学出版)p208から引用)

これはレヴィナスのフッサール評。『全体性と無限』の著者で、不気味なまでにただあること(イリア)から、無限に超越する他者の極点である「顔」にむかうことで私たちが倫理を宿した人間になることを説いた哲学者レヴィナスは、フッサールとハイデッガーから学び自己の哲学を構築していったそうです!

どのような場合であれ、二元性そのものは――これは本質に係わる一つの法則なのだが――すでに構成されたものでしかありえない。起源的(originalité)と二元性(dualité)は原理的に排斥し合う。(略)それは、超越論的現象学の手前に留まることなのである。(『フッサール哲学における発生の問題』(ジャック・デリダ著、合田正人・荒金直人訳、みすず書房)p156から引用)

これはデリダのフッサール評。テキストそれ自体に基づき意味を組み替える戦略的概念「脱構築」で知られる哲学者ジャック・デリダもその出発は現象学者です。彼の「差延」という起源の概念は難解ですが二元的なものから二元性をなくした概念と捉えると分かりやすい(?)かもしれません。他には、直接の弟子で後に袂を分かつドイツのハイデッガー、フランスの現象学者メルロ=ポンティ、実存主義のサルトル、意志を現象学的/言語論的に読み解いたポール・リクール、愛弟子で最大の現象学者といわれるポーランドのインガルデンなどなど、フッサールの哲学はビッグ・ネームたちに大影響を与えています!

まとめ:㋫は明証的に哲学する価値を現代に説く偉大な哲学者です!

あとは小ネタを!

現象学用語で知覚の感覚的内容をさす「射映」は、フッサールにとって意識構造解明の重要な1ピースである。「[時間を]構成する諸現象を観察するならば、われわれは、ひとつの流れを見いだすのであり、そして、この流れの位相はすべて射映の連続性である。」フッサール現象学についての追記①。「射映」は語感からもある方向をもった印象がありますが、色や質や形といった物質的な知覚内容です。フッサールはそれを物質それ自体の反映ではなく意識プロセスの地平を反映していると説いています。上の引用は『内的時間意識の現象学』(エトムント・フッサール著、谷徹訳、ちくま学芸文庫)p303からで、「構成する」「流れ」「射映の連続性」の傍点を略しました。

フッサール現象学でメロディーの論考は有名。すでに消えた音、いま鳴る音、未来のまだない異質な音たちをまとめてメロディーと聞く人間の内的時間意識をさぐる。「思念されている音たちが、なお鳴っているかぎり、そのメロディ全体は現在的として現出している。」フッサール現象学についての追記②。「内的時間」は後年のフッサールの最も重要なテーマです(『フッサール書簡集』に寄せたインガルデンの回想では彼がその示唆に一役買ったよう)。また『内的時間意識の現象学』で考究した「メロディーはどう鳴っているか」は非常に明晰に記述されており、しかも内的時間の所産(メロディー)が共同的なのは何故かなど新たな思考にいざなう名著です。皆さまの哲学的解明のためにぜひ挑んでみてください!

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