野田研一編『耳のために書く 反散文論の試み』(水声社)の感想
私は、私たちは、いま、文章を書く瞬間にもそれを声として読まれることを希望する。活字にじぶんの肉声を通わせようとすること。これは文章を書くごく当たり前の前提であり、よく考えると、眼でみるかたちに身体の音を込めようとする矛盾に満ちたふるまいと思える。『耳のために書く 反散文論の試み』(2024年)を読むと、それが人間が身体を抑圧した歴史の産物であり、同時に、その制約を生きる葛藤も込められていそうだ。
本書を紹介する前に、制度批判が人文科学の強力なモチベーションでありつづける意味に触れたい。いまある社会制度や権力を分析してジャッジするだけでなく、その制度がいまの自分自身をも作り上げている事実もみつめること。人文科学は、この対象化困難な対象とアグレッシヴに格闘してきた。ちなみに、本書のそれを雑に言い切ると、「眼」で活字を追うシステムのことを指す。それは私たちの「耳」の生を奪ったのである。
本書は、「耳のために書く」や「反散文論」のタイトルの意味に触れている一方でウォルター・オングとマーシャル・マクルーハンの接続が論述のアイディアとして開始から冴えている野田研一の「まえがき」。印刷術の発明以降という長大なパースによって活字の起承転結が「耳」の生を変容したばかりか風景の視点をも生んだことを論じる野田研一の「視点なき思想」、19世紀の文豪メルヴィルの名著『白鯨』に絵画や映画をも超える「詩」の轟音を読み取った関根全宏の「声の残響」、名作『フランケンシュタイン』の上演やワークショップのフィールドワークを通じてこれまでの常識が抑圧してきた怪物の「声」の価値を明るみにする中川僚子の「小説、舞台、教室」、フランスの批評家モーリス・ブランショの書く物語(レシ)に生身の発話をめぐる文学の根源的な思考があることを説く高山花子の「言葉の声」が「第Ⅰ部 テクストの〈声〉を聴く」です(敬称略、以下も同様)。ザ・名作文学を新たに「声」を刻み込む格闘として捉えているのが第Ⅰ部のゆるやかな共通点と言えそう。
続けて、東アジアにおける仏教説話のひろがりを絵巻物に残された場面から語りの場のひろがりとして捉え直す小峯和明の「説話の第三極論」、「美辞麗句集」という明治期の刊行物から識字教育と庶民の美意識の実態を活写する湯本優希の「文章の〈型〉の獲得」、コロナ下のマスク着用やリモート授業の中で取り組まれた声の表現教育を通じて教室の価値を再考する佐藤壮広の「声と音のペダゴジー」、あのインゴルドの訳者がインゴルドの著作と自身のフィールドワークの経験(と野田研一の論考)を通じて世界と言葉の関係を大づかみにつかみ直す奥野克巳の「世界と「言葉」の正常な関係とは」が「第Ⅱ部 聴覚空間の文化」。トピックがとても多声的で「声」(と文)の研究の現場のすごみを教えてくれる第Ⅱ部。
最後は、石牟礼道子が島尾ミホの語りの「ソノシート」に感動していたエピソードを紹介しつつ両者がともに土地の言葉により既成の自然観に抗していたことを描く小谷一明の「語りかける文学の予祝」、石牟礼道子の『天湖』の翻訳者が石牟礼作品を語りながら現代の口承性も総括しているブルース・アレンの「野生の中へ」(相原優子訳)、『苦界浄土』に描かれた夫婦の言葉のやりとりと他テキストとの異同をとりあげ言葉を交わすことの根源的な価値にせまる山田悠介の「石牟礼道子の「声音」の思想」、児童文学者としての石牟礼道子にスポットを当て声と生命の結びつきに対する根源的な感覚と文学者としての戦略の双方を論じる徐嘉熠の「石牟礼文学における音読表現について」、作家が漱石『草枕』等の朗読と吃音を通じて声と散文のリンクを体験的に描写する中村邦生の「音読に抗して」が「第Ⅲ部 声から声へ」。いちどく石牟礼道子祭りで、石牟礼道子が少しでも気になる人は絶対に読んだ方がいいいい論文が並んでいます。また、中村邦生というもう一人の文学者のエッセイが最後に置かれることで、石牟礼礼賛にとどまらずじしんの問題として声と文字をどう捉えるかの内省のリレーにそっと促すような構成も素敵です。これに野田研一の「あとがき」が最後に書かれています。
最後に2篇だけつけたしで感想を。
現代の活字と声の言葉をめぐる思考の歴史を総覧した観のある野田研一の「視点なき思想」は、日本文学の読解が抜群に格好いい。アメリカのネイチャー・ライティングの紹介者としても知られる氏は、本論で大岡昇平『野火』(とそれに触れた日野啓三)の「風景」を論じている。奥行きがなく身体的な左右がせり上がってくるもはや風景でなくなった風景を論じており、それが日本文学の価値を再説するようにも感じられる。以下に引用を。(あと、『失われるのはぼくらのほうだ 自然・沈黙・他者』(水声社)所収の論にも太宰治の『津軽』冒頭に現実の裂け目を見いだしている記述があってこれもいい。もっと日本文学を論じてほしい。)
「「単一的音調的散文」と近代文学との関係が語られているが、注目すべきは活字印刷の紙面の形態および配置が書きことばという新しい文体を産み出したという事実である。しかもそれが書きことばにとどまらず、話しことばにも大きな干渉を果たした上に、近代におけるデカルト的均質空間論のある種のモデルのような働きさえした」(p27)の奥行きのある書きことば的世界に対してこう書きます。「私たちは声の文化の所在と方途、聴覚的空間の重要性をつねに、「視覚化」された世界のかたわらに触知し続ける必要がある。小説『野火』における、「見えなかった野火が立ち上がっている」とは、そのような事態を指すのではないだろうか。」(p45、「かたわらに」の傍点を略)
関根全宏の「声の残響」は、世界文学史上屈指の謎小説『白鯨』をものすごくすっきりと言い切っている前代未聞の論文だと思う。「クライマックスに向かってまっすぐ進む直線的なストーリー・ラインを犠牲に」(p61)して、「鯨に関するあらゆる経験を総動員すること。緊張と緩和の力学によって全体を構成すること。(略)それはとりもなおさず、エイハブの「劇」が引き起こす「緊張関係」に耐えて、あるいはときに身を翻し、(略)〈私〉なるイシュメールが経験した「劇」を語り尽くすための手段でもあったように思える。」(同、2つの「経験」の傍点を略した)と論じる。
つまり、氏は『白鯨』の雑多さをそもそも本作がイシュメルという、たった一人生き残った船員が語り手であるという前提を貫通させて、そこに彼のサイコドラマを読み取るばかりか、「鯨学」のような逸脱さえ抒情に変え、さらに「海」での現実の死線が描かれているとみなす。たしかに、自他の生の現実をテキストに描こうとしたならば、きっとそれは爆発的な情報量をテキストは含むだろう。さらに、それはテキストの文字の響きとさえも渾然一体となったもはや詩でなくなった詩のようにある。
「こうした身体性が聴覚的に知覚される際に立ち上がってくるのは、文字文化以前の〈声の文化〉を特徴づける〈いま・ここ〉の現前性である。船乗りの世界を生きたメルヴィルが目指したのは、〈声〉を〈文字〉に対置するのではなく、〈文字の文化〉とも訣別するわけでもなく、出来事と身体的経験を文字テクストに新たな声音の響きとして再編することだったのではないだろうか。」(p69「現前性」「経験」の傍点を略)