【要約】どのような教育が「よい」教育か
どのような教育が「よい」教育か
苫野 一徳 (2011年)
要約
0. 教育の世界の規範欠如
現代の教育学は、「よい教育とは何か」という素朴な疑問に答えることができない。
絶対的な価値観の押しつけを嫌うあまり、「人はそれぞれが決めるよさ(目的、価値)を追うしかない」という相対主義的ニヒリズムに陥っている。
教育について、相対主義的でない考えも一部にはある。しかしたいていは、「これが正しい教育です。以上。理解できない人は置いてかれます。」という断定的な押しつけをしている。この二つの立場は互いに没交渉で交わることもなく、よって教育について建設的な議論は進まないままになっている。
ここに、相対主義的ニヒリズムでも、断定的押しつけでもない立場から、教育の議論の土台を作り、教育の規範欠如(なにがよいかわからない)の状態を克服したい。
1. 教育のいま
日本の近年(1970年代以降)の教育観を概観すると、二つの大きな傾向が見られる。一つは、経済におけるいわゆる新自由主義的な考えを取り入れた教育である。新自由主義的な教育は、小さな政府、選択性、自由化などを良きものとし、税金をなるべく使わず市場原理を利用することで合理化と効率化を目指す。これは同時に、実力主義による格差の拡大を意味する。
もう一つの傾向は、道徳、愛国心、郷土愛を重視するといった、社会規範の強調や国・地域の同朋意識を高める教育の方向性である。これらの価値観には新自由主義によって引き起こされる格差や分断を軽減し、社会の秩序を保つ効果も期待できる。(要は自民党がやってきた教育政策)
この新自由主義的教育観も、2000年代後半に起こったリーマンショックなどを機に批判も高まってきた。しかし現時点(2011年)では、まだ新しい確固たる教育観の潮流は出てきておらず、教育界は混迷している。
2. 議論の底板としての欲望あるいは興味
教育における「よさ」は相対的なもので、世界には絶対的な「よさ」(価値)などない――この相対主義を超えるヒントが、フッサールの現象学にある。
なるほど確かに、絶対的に「よい」「正しい」教育を打ち立てることはできないかもしれない。しかし、私たちは現実に「この先生はよい先生だ」とか「この教育はよい教育だ」と確かに信じる感覚(確信)を経験する。この確信を持ったこと自体を相対主義は否定することはできない。
とすれば、私たちは「いつ、なぜ、どのようにして「よい」と確信したのか」という確信成立の条件と構造を追求し、考察することができる。そして、その条件と構造を議論することで(これが絶対よい教育だと押し付けるのではなく)、私たちは教育の「よさ」に関して相互に共通了解する余地を見出すことができる。
また、私たちのあらゆる確信(知覚、価値観、信じるものを含め)は、私たちの欲望・興味と関係する形でしか訪れない。言い換えると、ある確信の原因・理由には、それに関する自分の欲望や興味が必ず存在するということである。そして、この欲望・興味は私たち各人が検証可能な最も原理的な(最も基礎となる)要素である。
というのは、たとえば「これがよいと感じた」とか「ある人を好きになった」とき、その究極的で完全な原因・理由は人間には理解できない(だろう)。しかし、そのように欲した、心が引かれたという欲望・関心の存在までは自らで確認することができる――いわば検証の底板となるのである。
欲望や興味は、それを本当に自分が持っているかを「各人が自らに問うという形で、確かめることができる」(100)という検証可能性が担保されているため、相対主義を克服することができる。「私たちは、互いに互いの教育論の底にある欲望・関心を問い合うことで、自らの教育論を見直すことも、また共通了解へと向かって思考を向かわせることもできるようになる」(75)のである。
3. 教育の本質と目的
「人間的欲望の本質は〈自由〉である」と、ヘーゲルは言う。(107)
自由とは、単に欲しいものを得る、したいようにするという「わがまま」ではない。それは「欲しい」や「したい」という欲望に振り回されて(自分が制限されて)いるだけで、真に自由な状態ではない。ヘーゲル曰く、自由の本質は、そうした欲望による制限を自覚し、その中で「自らの意思において選択・決定の可能性が開かれていると感じられた」(114)状態のことである。
しかも、人間は必ず複数の欲望を持っている。それは、全ての欲望が完全に叶えられることは決してないということを意味する。言い換えると、欲望は常に制限されている――欲望のあるところ常に制限がある――ということである。
そして人間は、どうしてもその制限から「自由」になりたいと欲してしまうものである。ここまで理路をつなぐと、「人間は欲望を持つ」は「人間は自由になりたい」と同義ということができる。つまり…
「人間的欲望の本質は〈自由〉である」これがヘーゲルの主張である。
ヘーゲルのこの人間観を教育に当てはめると、教育の目的は、「それぞれの人の自由」と「社会の人々が互いの自由を承認する状態(自由の相互承認)」を実現すること、と定義することができる。
この「それぞれの自由」と「自由の相互承認」は、一方が欠けてはもう一方の実現もない、互いに支え合うものである。つまり、ある人が自由になるためには、他者の自由も尊重しなければならないということである。なぜなら、もし全ての人が自分の自由を際限なく主張すると、絶えず争いが起こり、かえって全ての人の自由が阻害されるからである。
また、教育の目的達成のために具体的に目指すことは、それぞれの自由と自由の相互承認を実現する能力を身に着けさせることとなる。ここでいう能力とは、子どもの場合「学力」と「ルール感覚」ということができる。また、学力の中身には「諸分野の基礎知識」と「学び(探究)の方法」の二つがある。
義務教育段階で子どもたちはこれらの能力を養うことで――またそれ以後もこれらの土台の上にさらに能力・教養を高めることで――、それぞれの自由と自由の相互承認を実現していくのである。
4. よい教育方法とは、よい教師とは
教育の本質――教育とはなにか、どのような教育がよい教育か――を解明したいま、私たちは、いままで教育界を迷走させてきた規範欠如(なにがよいかわからない)の状態を脱したということができる。これにより、いよいよ具体的な教育実践を構想することができる。
これまでの論を踏まえると、それは「自由と自由の相互承認の実現に適う教育実践なにか」を問うことになる。
【教育方法】
教育方法ついては長年二つの主張が争ってきた。子どもの興味関心に即し、経験や体験を通して教育すべしとする派(経験主義)と、必要な事柄を教師から子どもに系統的に教え込む必要があるという派(系統主義)である。
しかし実際は、これらの一方だけに絞る必要などなく、「目的や状況に応じて使い分ければいい」(186)のである。教師は、教えることの内容・目的や、子どものその時々の実状に応じて、体験的な学習と座学的な学習を適切に使い分けるべきである。
【よい教師の条件・資質】
まず挙げるべきは「信頼」と「忍耐」である。教師の信頼と忍耐によって、子どもたちは自己承認の感覚を育む。そして自己承認は子ども自身の自由にとって必要不可欠な要素である。「信頼と忍耐は、時代を超えた教育の秘訣であり、そしてまた、教師にとって最も重要な資質である。」(194)
また、教師にとって「権威」も備えるべき資質である。なぜなら、先に論じた「自由と自由の相互承認の実現のための能力」の一つである ルール感覚を身に着けさせるために、教師の権威が必要だからである。
ただし、すべての教師がこれら三つの資質を持つべきというわけではない。
それらの資質が欠けている(ある意味でダメな)教師が学校にいても問題ない。(ただし、子どもを著しく傷つけるような教師はよくない。)
むしろ、「多様な教師(大人)に触れることで社会の多様性を学び、そしてまた、多様な人たち相互の承認関係やその必要性を学んでいく」(199)ためにも、資質を欠いた教師の存在意義はある。ただし、そのような教師も自己了解――自分が子ども信頼していないことや、価値観の押しつけをしていることを自覚すること――の意識を持つことは必要である。