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【感想②】〇〇力(りょく)を伸ばす教育
学校と生活を接続する
ドイツの改革教育的な授業の理論と実践
田中怜 (2022年)
教育の話で、
「今の時代、〇〇力(りょく)を伸ばすのが大事だ」という主張はとてもよく聞くが、さあ、この「〇〇」には何が入るか?
思考力?判断力?表現力?
コミュニケーション能力、課題解決能力、応用力、行動力、忍耐力??
下手したら聞いた人の数だけ答えがあるかもね。
しかし、まだまだありますよー。マイナビさんが大変丁寧にまとめてくださっている記事からちょこっとだけ紹介しましょう。
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から借りました。
こんな感じで、この類の話を始めたら〇〇力のオンパレードとなる。
しかもこの〇〇力は常に新しいものが登場しては喧伝され、そのリストは無限に続くようにすら感じる。
もしここにドイツの教育学者 プランゲがいたら
「それ、ぜんぶ方法的学習の話しかしてないやん」
って言うだろう。
さて、この『学校と生活を接続する』という本で紹介されているプランゲは、現代において意味のある学習や教授とは何かを考えた人だった。学習を「何かを獲得すること」とするならば、彼の理論は〇〇力の話と表裏一体と言えるだろう。
プランゲは学習を「実定的学習」「方法的学習」「反省的学習」という三種類に分け、時代が進むごとに必要となる学習が変化していくと考えた(実定→方法→反省の順番に)。
本書で書かれている内容を超簡単にまとめると、こんな感じ。
実定的学習:生活でそのまま使える知識や技術を学ぶ
方法的学習:効率的な実定的学習の方法を学ぶ
反省的学習:学習(内容や学習者)を相対化することを学ぶ
ここで言う相対化とは、学習した事柄がどれほど価値のあるものか、学習内容や自分自身がいまと別様であり得えるのでは、などを問うこと…
らしいのだが、ちょっと難しいので誤解を恐れずあえて僕のイメージと言葉に変換してみる。
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ここでいうA=学習内容は無数に存在する。というか何を入れてもいい。例えば「分数の割り算」でもいいし、「プログラミングの基礎」とか「栄養についての知識」とかでもいい。
とにかく実定的学習は、A自体に価値があり、A、B、C…と どんどん獲得していって積み上げていくことを目標とする。
次の方法的学習は、Aよりも むしろそれを獲得する能力(図の矢印)に価値を置き、その力を伸ばす(よりよい矢印にする)ことを目指す。そうすることで、どんな目標にも素早く向かうことができる。
少し考えると、この矢印は最初に出てきたあらゆる〇〇力と同じであることに気づくだろう。
変化の急激な現代だ、AやBやCにいつまでも価値があるとは限らない。だからこそ、どんな時代でも活躍できるように〇〇力を鍛えよ、ということだ。
しかしプランゲに言わせると、社会が複雑になっていくと「Aを獲得する力」すらも陳腐化するよってさ。ほら、確かに毎年のように〇〇力のブームって変わるでしょ。
その代わりにプランゲが主張することは、反省的学習こそが現代に必要な学習だという。
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プランゲ曰く、A自体(実定的学習)やその獲得プロセス(方法的学習)にも価値はあるという。しかし、その上で大事なのは、学習内容Aを様々な視点から見ることで その意味や価値を問い直すことだという。その結果、学習者はAの意味や価値を教師の意図とは違うように捉えたり、あるいはAではなくBやCに自ら価値を見出すことも起こりうる。
プランゲは、そのような学習が必要と考えた。
方法的学習と反省的学習がどう違うのか、僕の勝手な解釈で端的に表すなら、価値を自分で決めることを重視するかどうか、ということになる。
方法的学習で重視されるのは「矢印」で、それは新たなBやCという学習内容 =目指すべきもの =価値、が設定されたらそれを素早く効率的に獲得する力だ。
しかし、あくまで価値は自分の外部により「設定される」ものと考えられている。
一方、反省的学習の考え方では、Aという価値を多視点から見て、時に疑うことを促す(しかもその疑いを矯正することは必要ない)。よって、Aという価値は「自分で」再定義が可能で、場合によっては全く別の価値を「自分で」設定することもできる。
ここまでのプランゲの学習論を理解したとしても、彼の主張――現代では方法的学習よりも反省的学習が重要である――に同意しない人もいるかも知れない。ここまでくると哲学的な議論になるから。
でも一つ確実に言えそうなのは、実定→方法→反省的学習の順に、より学習者(自分)が「自由」になる度合いが高まるということだ。特に反省的学習になると、価値を決める主体が自分となる点において、実定的・方法的学習までとは自由の度合いが質的が異なると言えるだろう。
学習者を自由にするのが真の学習である、とまでいうと大袈裟だろうか。
新しく出つづける「○○力」を追いかけるのは、ゴールのわからない(もしかしたらゴールの無い?)レースに参加させられているようなものかもしれない。
僕個人としては、「レース」よりも、目的地も行き方も自分で決める 「気ままな旅」の方が好きだ。