ショローに告ぐ、ドライであるということ
『ショローの女/伊藤比呂美』
伊藤比呂美さんのエッセイを読むのは『道行きや』に続いて2回目になる。このエッセイは『婦人公論』に2018年8月28〜2021年5月11日に渡って連載されたものに加筆・再構成された作品だ。
伊藤比呂美さんは1955年生まれ。ということは今年で66歳になられるのだろうか...伊藤比呂美さんはここ3年間は早稲田大学で教壇に立ち、ショロー(初老)を迎えて身体能力の低下を感じつつも熊本と東京を行き来してらっしゃったようだ。あれだけ海外と日本との往復をひょいひょいとこなしてきた著者も今は東西線・早稲田駅で重い足とカートを引きずりながら四苦八苦したり、やたらと昔を思い出して人恋しくなったり、風邪がなかなか治らなかったり、猫を飼おうかどうか悩んだり、世の中のニュースに不安を募らせたり、やっとのことでLINEの楽しさを覚えたりと、誰でも歳をとると感じることを著者も同じように感じている。それでもなぜか他の同年代のそれとはまったく違う感覚を著者には感じる。私はまだ著者の年齢には達していないが、私は私なりに歳をとる違和感は感じている。若い時にはなんなくできたことができなくなることや、若い時には想像もしていなかったネガティブ思考が芽生えたりと、それは日々目まぐるしくやってくる。でも著者の場合はそんな一般的なイメージとはまったく違う。そう思わせるのは何なんだろうと考えながら読んだ。
『道行きや』の時も思ったことだが、著者はとてもいろんなことに正直なのである。苦しいことを苦しいと感じそれを言葉にする。嬉しいことを嬉しいと感じ言葉にする。切ないこと、腹の立つこと、やりきれないこと...その他あらゆる感情を正直に吐露して言葉にすることができるのだ。私たちは違う。苦しくても「私は大丈夫」と表現したり、腹が立っても「我慢しなきゃ」と思ったりと自分の感情に嘘をついてしまいがちだ。それが第三者に見透かされてしまうと、ウジウジしているように思われてしまう。著者の場合はそれは一切ないように思う。こんなふうに「ほら、これが私なのよ」とあっけらかんと表現されると「おぉ!」となってしまう。
金原ひとみさんは書評で...
生活も趣味も感情も驚くほどわちゃわちゃと忙しいのだが暑苦しさは皆無、むしろドライで、どこまでも飄々としている。
と書いてらっしゃるが、読んでみるとそれがとてもよくわかる。
どういうふうに老いていくかなんてことは個人の勝手であるし、その人それぞれの生き様というものが関係していて、家族やましてや他人がどうこう言えるものでもないと思うが、「ドライに飄々と老いていこう」というのは個人的にとても賛同する。でもこればっかりはどうしたらウエットじゃなくドライになるのかなんてノウハウはないから厄介だ。
咳はしなくても一人。息をするだけでも一人。ごはんを食べても一人。こうやって寂しいと思いながら年取っていくこと、しかたないと思っている。一人で寂しいなあと思いながら死んでいくことも。父もそうだった。寂しいければ寂しいほど、贖罪しているような気持ちになる。(本文より一部抜粋)
ちょっと泣けた。
これはショローを迎える(迎えた)人たちへのバイブルでも応援歌でもない。伊藤比呂美という一人の女の生き様の様子である。
『道行きや』についての記事↓