【連載小説】「雨の牢獄」解決篇(九・完結篇)
【注意】
本投稿は、犯人当て小説「雨の牢獄」の解決篇です。
問題篇を未読のかたは、そちらからお読みください。
長い、長い、沈黙のあと、黎司は口を開いた。
「〈足跡の密室〉を作成したのは月島夫人である……そう仮定すると、おかしなことになる」
「おかしなことだらけ。もう、なにがなんだか」
瀬奈がちいさく頭を振った。
「〈足跡の密室〉を作成するためには……厳密に言えば、足跡をつけ直すためには、睡眠薬で自分以外の全員を昏睡させなければいけない。つまり。月島夫人が足跡をつけ直すために僕たちに睡眠薬を飲ませたのなら、夫人以外の全員が昏睡していたことになる」
「そうね」
「だったら、誰も夫人を殺しようがないじゃないか」
そう言うと、瀬奈は、
「あと一〇分くらい、かな」
と言った。駅前までの所要時間を言ったのだろう。
話の先を急がなければ、と黎司はおもった。
「たとえば同じ種類の睡眠薬を常備していたり、あるいは体質のせいで睡眠薬の効きが悪かった……もちろんそういった可能性も考えられる。でも、月島夫人が夫を殺害し、他のメンバーよりも先に目が覚めた犯人が月島夫人を殺害した……そう仮定すると、また別の疑問が生じるんだ」
「ずっと疑問しかないけど」
「いや、この疑問こそが最も重要なんだ。そしてこれによって、犯人を特定するためのふたつめの条件が揃うことになる」
「ふたつめの条件」
「そう。犯人を特定するための条件は、 たったふたつしかない」
黎司はそう、断言した。
「条件その一。犯人は、第二の事件発生時に月島邸にいた人物である。この条件により、第一の事件で殺害された月島太郎、第二の事件で殺害された月島蘭夫人の二名は犯人候補から除外される」
「当り前じゃない」
「条件その二……の前に整理しておきたいんだけど」
「なにを」
「第一の事件の発覚後、道路の崩落によって、月島邸は一時的に孤立したわけだけど……いつ道路が普及して警察が到着するかはわからなかった」
「うん」
「その状況下において、犯人が最優先すべきは、蘭夫人の殺害、足跡の偽装、そしてあとはデジタルカメラの破壊くらいだろうか」
「太郎さんの新作メモの破棄もしないといけないと思うんだけど」
「ああ。後で説明するけど、その時点ではもう、新作メモは月島邸にはなかったと僕は思っている」
「どういうこと」
「時間がないから話を戻すけど……いつ警察が月島邸に到着するかわからない、その逼迫した状況下で、犯人はわざわざ太郎さんにかけられていた毛布を除けたりするだろうか……僕はその可能性を排除したいんだ」
「なにを言いたいの」
「第一の事件・第二の事件で共通して、被害者はともに腹部を刺されて殺されただけでなく、さらに頭部を殴られていた」
「警察は怨恨の線で考えているみたいだけど」
「これは偶然だろうか」
「どういう意味」
「ふたりの殺害状況が偶然にも似てしまった……その可能性も僕は排除したいんだ」
眉間に皺を寄せたまま、瀬奈は無言になった。
また急に、雨が強くなりだした。
黎司は、一言一言を、ゆっくりと明確に言った。
「第一の事件が刺殺であることを、 第二の事件の犯人が知ったのは、 いつか」
言葉を切ると、大粒の雨音が、車内を満たした。
「刺したうえで殴るというふたつの殺害状況を意図的に似せるためには当然ながら、 太郎さんがそういった手段で殺害されたことを知っていなければならない。太郎さんの遺体の頭部の傷は一目瞭然だったけど、 身体には毛布が被せられていたから一目見ただけでは腹部が刺されていることを知ることはできないんだ。事実、事情聴取で聞かされるまで、僕たちは、太郎さんは撲殺だと思いこんでいた」
瀬奈は無言のままだ。
「蘭夫人を殺害した犯人が月島太郎の腹部にペーパーナイフが刺さっていることを知ったのはそれを刺した瞬間である。つまり、 第一の事件と第二の事件は同一犯による連続殺人だった……ということになる」
「そんなことを言うために、ずっと話してたってこと」
「そうさ」
「最初から連続殺人が濃厚だっている話だったんじゃなくて」
「第一の事件と第二の事件は連続殺人である。それでは、何故、第二の事件の被害者である蘭夫人は、第一の事件において足跡の偽装をおこなったのか」
「第一の事件の犯人を庇ったんじゃなくて」
「それだったら足跡の偽装だけじゃなく、犯行推定時刻に二人で一緒にいたと証言すれば、より強固に嫌疑を回避することができたはずだ。こういった共犯の可能性を否定するならば、第二の事件の犯人と、蘭夫人は、相互に独立して第一の事件に関与していた……ということになる」
瀬奈がまた無言になる。
「つまり第一の事件において、殺意をもった人物がふたり存在していたわけで……言うならば、文字とおり、月島太郎は本当に二回殺されたんだ」
瀬奈は無言のままだ。
「月島太郎は一人目の犯人によって刺され、二人目の犯人によって殴られ……そうやって互いの存在を知らない二人の殺意をもった人物が、たまたま連続して犯行に及んだということなんだろう。つまり、一連の事件において共犯は存在しなかったかわりに便乗犯が存在した」
瀬奈は無言のままだ。
「月島太郎の死体に毛布をかけたのは刺殺したほうの犯人で、おそらくは事件の発覚をすこしでも遅らせるためのものだったと思うけど、これによって、月島太郎がソファで仮眠しているだけだと思った第二の人物は、生きている彼を殺害するつもりで、実際には死体の頭部を殴った……ということになる。つまり、この人物は結果的に、殺人犯ではなく死体損壊犯にすぎなかったわけだ」
瀬奈は無言のままだ。
「第一の事件において自らが殺人犯であると思いこんだ死体損壊犯による足跡の偽装を、第二の事件の犯人が便乗して完遂したわけだけれど、この第二の事件の犯人は第一の事件の真犯人でもあるわけで……つまり、このふたつの殺人事件は同一犯におる連続殺人でありながら、第一の事件の便乗犯が第二の事件の犯人であるという、非常に特殊な構図だったわけだ」
「複雑ね」
と、ようやく瀬奈が口を開いた。
「整理しよう。まず足拭きマットの泥から、第一の事件発覚時に僕たちが見た足跡は、離れから母屋の裏口に向かって後ろ向きに歩いてつけられたものだということになる。これをつけた犯人は降雨直後に死体と一緒に離れにいたわけで、この時点では刺殺犯はとっくに離れにはいなかったから、つまり足跡をつけたのは、死体損壊犯のほうだということになる」
「そうね」
「そして共犯がいないとするならば、この足跡をつけた人物イコール第一の事件発覚直後に離れにサンダルを持ち込んだ人物ということになる。サンダルを持ち込むための服装とチャンス、そして被害者が離れにいることを知る条件を有していた人物……つまり、月島蘭夫人こそが第一の事件の死体損壊犯であり足跡をつけた人物であるわけだ」
「なるほどね」
「そして第二の事件の犯人、つまり、月島夫人を殺害するため、そして、足跡をつけ直すために睡眠薬を全員に飲ませた犯人は、第一の事件の殺害犯と同一であるわけだ。これによって、ふたつめの条件が導き出され、この論理の環は閉じる」
「もう犯人がわかる、ということ」
「犯人だけじゃない。ほとんどのことに説明がつく」
「たとえば」
「まず、月島夫人が後ろ向きの足跡をつけた理由だ。犯行の最中に降雨があり、月島夫人は泥の海によって、離れに閉じ込められた。たとえば、足跡を引きずるようにして誤魔化すこともできたわけだけど、でも、その場合は降雨前のアリバイのない自分が犯人であることが自明になってしまう。それを回避するため、つまり、犯行推定時刻を降雨後に偽装するために、月島夫人はあのような足跡をつけたわけだ」
「なるほどね」
「つぎに、第二の事件の犯人が足跡をつけ直した理由だけど……これは保険だったんだと思う」
「保険」
「デジタルカメラのデータを消したところから想像するに、警察が到着する前に降雨があって足跡が消えてしまうことを犯人は期待していたんじゃないかなと思うんだ。その場合、足跡の密室は僕たちの見落としとでも判断されるはずで、もちろん殺人事件である以上、現場に立ち会わせた重要参考人として聴取されることは避けられないわけだけど、足跡が雨で流れてしまったからには外部犯の可能性が浮上するわけで、そのぶん嫌疑から免れやすくなる」
「保険っていうのは」
「そうならなかった場合、つまり降雨に検視が間に合った場合、月島夫人のつけた足跡のままだったら、体重のかかり具合から、離れから母屋の裏口に向かって後ろ向きで歩いたことが露呈してしまう。これによって、月島夫人と同様、第一の事件における降雨前のアリバイのない自分が筆頭容疑者となってしまう。犯人はこれを回避したかった。そう。これこそが犯人を特定するための、ふたつめの条件なんだ」
「着いたわ」
瀬奈が車を停めた。
それが合図だったかのように、雨が一段と大きくなった。
黎司は叫ぶように言った。
「条件その二。犯人は第一の事件において月島夫人が死体を殴るよりも先に被害者を刺殺できた人物……つまり降雨前のアリバイがない人物である。この条件により、同時間帯にリビングにいた佐藤寅男・能登亜良多・枝野麗乃の三名は犯人候補から除外される」
瀬奈は無言のままだ。
「そして、いまこの瞬間ここでそれを証明することはできないけれど、電車で移動中、そもそもこの街に降り立ってすらいない僕も除外される」
瀬奈は無言のままだ。
「待ち合わせるには不自然な時間帯だから秘密裏の行動だったと思うけど……犯人は朝、月島邸に行き、そして離れで月島太郎を、おそらくは突発的に殺害した。犯人が離れを、月島邸を立ち去ったあと、入れ違いに月島夫人が離れに行き……あとは説明したとおりだ」
瀬奈は無言のままだ。
「犯人が月島邸に戻ってきた理由。それはおそらく、現場で失くしたと思いこんでいたペンダントを捜すためだ」
瀬奈は無言のままだ。
「殺人の動機は父親の創作メモを奪い返すためで、そして創作メモはあのとき、僕の目の前でポストに投函した封筒の中だ」
ふたりの乗る車を激しく雨が打ちつけ、エンジン音さえ聞こえない。
黒くうねる雨雲に、黎明がおぼろげに透けている。
青い街に、街灯や信号の光が滲んでいる。
瀬奈は無言のままだった。
―完―
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