なんで撮ったんだろと思った写真
確かに、今考えると、なぜ撮ったのか意味不明な写真ってあるよなあ~
峻険を征服しようとする登山家のこの有名な言葉に照らして、「人はなぜ絵を描くのか?」という問いに私たちが答えようとするとき、「そこに美があるから」がもっとも支持される言葉なのかもしれませんね(^^)
例えば、この写真。
シカゴのマグニフィセントマイルは、世界で最も長く、豪華絢爛なショッピングストリートのひとつです。
13ブロックにわたる高層ビルのジャングルに、ショップが460軒、レストランが275軒、ホテルが60軒以上、さらに美術館、博物館、メディア関連会社など魅力のスポットが目白押しです。
<Chicago River>
<John Hancock Center>
<Lake Point Tower>
<Tribune Tower>
<Water Tower & Pumping Station>
<Wrigley Building>
そこで出会った謎のストリートパフォーマー「シルバーマン」?
銀色のファンデーションを使ってるのか?
別の何かか?
星野道夫さんの『旅をする木』という本に、「人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配でこんなにも豊かになれるのですから。」という一節があります。
「旅をする木」星野道夫【著】(文春文庫)
だとしたら、いま撮っているモノが、本当に写真である必要があるのかという疑問を常に頭の片隅においておく、そう立ち返った時に、必要なモノが見えてくるのかもしれませんね(^^)
確かに、私たちが見ている、見てきたと思っている記憶も、実のところ見ているようでよく見ていなかったという不確かな過去のイメージでありがちですから、心動かされた場面を記録し、その写真から、新たな発見があったり、他者とのコミュニケーションが生まれたりするのも写真があるからできることなんだろうなって、そう感じます。
例えば、小さな差に劣等感を抱いたり、そんな些細なことに振り回される日々を生きていても、光や風、草木の色を感じて胸がきゅっとなる瞬間が少しあれば、なんとか生きていけるなぁと思うのです。
改めて見たいと思ったときに見返すことのできる過去の一場面を残し続けるだけでも、人はなぜ写真を撮るのか?について説得力を持つ解の一面かもしれませんれ(^^)
長く生きれば、時間の経過とともに記録した写真の価値が増大するという経験は誰もがすることです。
あなたが写真を撮る理由は、何ですか?
なぜ写真を撮ろうとしたの?
現前する対象がどうして私の美的感覚をくすぐったのか?、その理由を考えることで、写真との向き合い方が変わるかもしれませんね(^^)
最後に、写真に関する考えさせられる文章を引用しておきますね。
”最初にして唯一の、科学の芸術に対する貢献のかたち
写真とは、現在のところ、最初にして唯一の、科学の芸術に対する貢献のかたちであり、その存在意義は、他のメディアと同じく、その独自性にこそ宿る。
写真にとってのそれは、無条件の客観性だ。
ほかの芸術様式にはない客観性こそが写真の本質であり、芸術にもたらすことのできる最大の貢献にして限界なのである。
ほかのあらゆる芸術様式に身を置く者たちがそうだったのと同じく、写真家も2,3の例外をのぞいては、自分の扱うメディアの本質を理解していない。
それぞれのメディアの真価は、それを純粋に用いたときにのみ発揮されるものだ。
だから例えば、写真の加工や操作などは、無力さの現れに過ぎない。
写真家、そして知的な鑑賞者たちの「写真」という手段への理解や畏敬の念の欠如が問題なのだ。
したがって、写真家の直面する課題とは、写真の限界と可能性とが、同時にはっきりと見えてしまうことであろう。
正直さこそが、生き生きとした表現に不可欠なのだから。
写真を取る時、彼は眼前の物に対する心からの敬意を持たなくてはならない。
それらの物たちは、人類の手など及ぶべくもない、無限の陰影を湛えて現れるだろう。
それを忠実に写し取ることは、操作や加工などのない、ストレートな写真技法を通じてこそ実現されるのである。
ほかの芸術様式と同じく、写真とは、同じゴールを目指す違う方向からやってきた新しい道筋にすぎないのだ。
そのゴールとは、とりもなおさず人生である。」(IMAより抜粋。- 1917年のフォトセセッション(写真分離派)による機関誌「カメラワーク」ポール・ストランドによる文章の一部)
ららみぃたんさんさん主催の【noteで文化祭】を開催していて、楽しそうだから、【noteで文化祭】ららみぃたんさん担当の展示コーナー飛び入り参加させていただきますね(^^)
noteで文化祭※展示コーナーコーナー
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