何処へ(下)
出典:nodasanta(作)「旅する少年は何処へ」
ところが、人間は、決して一人っきりでは生きることができない、本質的に何かと関係しないと生きていけない、関係の生物ですから、この関係が薄くなったり、なくなったりすると、生きる意味そのものがなくなってしまうのです。
日本語で「幸せ(仕合わせ)」と言うと、物事がうまく合わさっている状態のこと、つまり、いろいろな関係がうまくいっていることをいいますが、その関係が破綻してきているのです。
今世紀の初めに、M.ブーバーという哲学者が、人間が持っている本質的な関係を分析して、人間は、「私-あなた」という関係と「私-それ」という二つの関係を持っていると指摘しました。
彼は、私たち人間がもつ基本的な関係を「対話」という概念を中心にして考え、互いに呼びかけて答えあう「私-あなた」という関係と、呼びかけても答えない「私-それ」という関係をもって、人間は生きていると言っていました。
例えば、今、私は皆さんにこうして話しかけていますが、この中には、私のはなしに「そうだ」とか「違う」とか思われている方がおられたら、その方は、肯定的であっても否定的であっても、とにかく答えているのですから、その方と私は、今、「私-あなた」という関係にあります。
そのうちだんだん私の話しに退屈してきて、そうなると、その方にとっては、私は、「それ」になります。
これは人間関係だけではなくて、物とも関係もそうです。
愛用の○○とか、愛する人からプレゼントされた××とかは、「あなた」になるかもしれません。
ずいぶん前になりますが、実家で飼っていた犬が死んでしまい、犬専用も墓地に埋葬した時に、人間が生き生きと生きているということは、この「あなた」をもっている時なのだ、と改めて考えさせられました。
人間の幸せとはなんでしょうか?
それは、「それ」をたくさんもっていることではなくて、たった一人でもいいから対話ができる「あなた」がいることではないでしょうか?
M.ブーバーは「神さま」のことを「永遠のあなた」と呼んでいますが、それは別にしても、誰かを愛すると、辛いこともありますが、私たちが生き生きするのは、「あなた」がいるということを実感できるからです。
ところが、現代の私たちは、物事に深く関わることを避けて、「あなた」を失っています。
本来は「あなた」なのに、「それ」に変えてしまいるのでしょうねぇ。
以前、ある中学校で、一人の生徒を、その子はクラスメイトとして机を並べているにも関わらず、死んだものとしてお葬式をするという事件がありました。
先生までもがその葬式ゴッコに加わりました。
その子は生きているのに「それ」として扱われたのです。
そして、その中学生は、そのことに耐え切れずに、自ら命を落としてしまいました・・・・・・
こうしたことは、私たちの日常でどこでも起こっています。
学校、会社、家庭、私たちは、本来、人間が喜びや生きている幸せを感じるはずの「私-あなた」という関係を失って、いつの間にか「私-それ」の関係にすり替えてしまっていることに、気づかないでいます。
とても、不幸なことだと思います。
そこに私たちの不幸がある、といえるのではないでしょうか。
確かなもの、変わらないもの、本当に頼りになるものを見失って、その時だけのものとなり、生きる意味を見い出せなくなって、深いところで絶望している。
それが、私たちが生きている時代だと思います。
暗い、悲観的な歴史観かもしれませんが、今の時代は、疲労と倦怠と諦めの時代と呼んでいいのかもしれません。
タテタカコ「宝石」
https://www.youtube.com/watch?v=UGiSB7n1tiQ
しかし、私たちが生きる意味を見い出せず、生きがいをなくしているのは、時代や社会の問題ばかりではありません。
実は、虚無感や何をしても空しいという思いは、私たちが生きている限り、本質的につきまとうものです。
「生きること」は、「空しさ」の繰り返しでもあります。
このことに、早く気づかないといけない。
生と無は一体なんですよね。
例えば、ある母親と娘がこういう会話をしました。
娘が母親に尋ねます。
「お母さん、私はどんな一生を送ればいいかなぁ。」
母親が答えます。
「あなたは良く勉強をし、良い学校に入り、良い子になってくださいね。」
娘は言います。
「は~い、分かりました。私は良い学校で良い子になります。それからどうしたらいいの。」
母親は答えて、「あなたは良い大学にいき、よいおとなになってください。」
「分かりました。それからどうするの。」
「それからあなたは、良い会社で働き、良い仕事をしてください。」
「はい、そうします。でもそれからどうすればいいの。」
「良い人を見つけ、良い家庭を作り、良い子供を育てるのですよ。」
「それから?」
「それから・・・・・・」
母親は、それからの人生について答えることができませんでした。
それから人は老いて死ぬだけだからです。
人間は、自分の力では、死という限界を超えることができないんですよね。
人は死をもって、その人生を終わります。
死はすべてを無にし、ちりに帰します。
まことに潔くて、「ちりから生まれたものはちりに帰る」のです。
だから、この限界の中でしか生きられない人間の生には、いつも、虚無や空しさの影がつきまとってしまうのでしょうねぇ。
太宰治の小説の中に『トカトントン』というのがあります。
戦争で死というものをいやほど見てきた人間が、戦後を懸命に生きようとする姿を描いたものですが、主人公は、何かを一生懸命しようとする時、ふと、「トカトントン」という音を聞くのです。
そうすると、もう何もかもが空しくなって、無駄に思えて、やろうとした意欲が急に萎えていきます。
恋をしても、仕事に取り組もうとしても、誰かと話しをしている時も、将来のことを感がえている時も、「トカトントン」という音が聞こえてきます。
「トカトントン」は、「空しさ」、「無」の響なのです。
そしてそれは、私たちの人生、生活のあちこちで響いています。
限界を抱えている人間が生きることにつきまとっています。
そう言えば、旧約聖書の中の『コヘレトの言葉(伝道の書)』は、「なんという空しさ、なんという空しさ。すべては空しい。(空の空、一切は空である。人が日の下で労することに、なんの益があるか。)」という有名な言葉で始まっています。
空しさと絶望感は、人が生きている限りぴったりとつきまとっています。
そして、通常、私たちは、この生きることの空しさを、何かで誤魔化しながら生きています。
フランスが生んだ17世紀の大天才パスカルは、今から300年以上も前に、それを「気晴し」と呼びましたが、今の時代は、この「気晴し」で満ちています。
パスカルは賭け事に熱中する時期を過ごしたようですが、私たちも、賭け事をしたり、飲みに行ったり、カラオケに行ったりしますし、「気晴し」ばかりで生きてるなぁ、と思う時がかなりありますが、どんなに遊んでも、楽しい時を過ごしても、あるいは、どんなに仕事に没頭したとしても、虚無感や空しさから逃れることができないんですよねぇ。
そして、私たちが本当に深いところで、「生きる意味」や「生きがい」というものを見つけるためには、私たちが抱えている空しさや絶望、みじめさや悲惨さと真正面から向き合い、これを克服していくことが大切なことではないかと思うのですよね。
私はここで、自分が絶望的な空しさに襲われたときに自分を翻らせるような力、これを「希望」と呼んでいいんじゃないかって、思っています。
「希望」というのは、何か自分の手持ちの物の延長にあるような「期待」とは全然違うものです。
私たちは普通、今の状況や状態の中で、「ああなったらいいなぁ」とか「こうなったらいいなぁ」とかいうふうに思いますし、状況が悪くなればなるほどそういう思いが強くなり、それを「希望」と錯覚してしまいます。
例えば、風邪をひいて、ベッドに寝ているとします。
その時、早く熱が下がらないかなぁとか、あるいは、早く風邪が治らないかなぁと願います。
これは、本当に切実な「期待」ではあるのですが、「希望」ではないのです。
「希望」というのは、それが風邪ではなく、取れない痛み、治らない病気であったとしても、こういうものを、言ってみれば自分で背負いながら、なお自分の足を一歩前に出していくような力のことです。
だから、期待は裏切られることが多いのですが、希望は失望には終わらないのだと思います。
今の自分自身や自分の環境を丸ごと自分で抱えて生きていこうとすること、これを「希望」と呼びたいと、心から願いっています。
人間は誰でも限界を抱えて生きています。
人間の究極的な限界は、先ほど述べたような「死」でしょう。
それ以外にも、例えば、「がんばれ、がんばれ」と言われても、どうにもがんばりようのないものを抱えています。
がんばれ、がんばれって、いったい何をがんばったらいいのだろうと思ったことがありませんか?
言葉は、時と場所によっては、諸刃の剣にも成り得ます。
がんばろうにも、がんばりようがないことって、やっぱり、あるんですよねぇ、生きてきた中で、たくさん。
努力してできることもあるのですが、どんなに努力してもできないこともある。
それが人間なんだって、思っています。
でも、そこに至る前、日々の努力そのものが幸福な気分をもたらすならば、どんな学問や仕事を選ぶにしても、努力すること、それ自体が面白いと思えることを基準に選択する様にしてみる。
それが何の役に立つのかわからないけれど、どうしてもやりたい、やっていると面白いし、楽しいことをみつけいきたいですね。
そうすれば、たぶん、努力したけれど報われなかったという言葉だけは口にしないで済むはずです。
だから、問題は、何かを一所懸命努力することも大切かもしれませんが、それ以上に、どうすることもできない自分や自分の置かれている状況、そういうものを受け止めて、そこから生きていこうとすることではないかと、思います。
ですから、「希望」というのは、「これで生きていこう」という決断、言い換えれば、覚悟することによって生まれてくるものとも言えるかもしれません。
そして、そのとき、初めて、私たちは「生きていくことができる喜び」、つまり、「生き甲斐」というのを感じることができるのではないかと思っています。
こんな世の中です。
どんどん複雑になっていく世界の中です。
殺伐とした事件も起こるし、時には生きていくことが空しくなったりします。
いいことなんて、何もない。
幸せなんて、どこにもない。
ぬくもりなんて、どこにもない。
安らぎなんて、どこにもない。
そんな気持ちになってしまうことも、あるかもしれません。
だけど本当は、幸せも、ぬくもりも、あちこちにあるのです。
気づいていないだけ。
友達と、家族と、愛する人と、おはよう。
おやすみ。
またあした。
そんなことを言い合えるということは、涙が出るほど、愛しいこと。
また、自分自身や他の人、世界についての自分の核または軸となる信念を理解する時間を持つためには、ひとりの時間も必要です。
自分の思考プロセスや考え方に対する洞察を深めることができます。
ひとりの時間は、周囲からのノイズをシャットアウトして、自分の中にある感情と対話できる貴重な時間でもあります。
そんな風に、思えてきませんか?
幸せを、感じられる人になりたい。
つくずく、そう思います。
コトリンゴ「 こんにちは またあした」
https://www.youtube.com/watch?v=ypQezZwFaD8
コトリンゴ 「こんにちは またあした」(2019 version)
https://www.youtube.com/watch?v=8xqjchXa-LM
【関連記事】
何処へ(上)
https://note.com/bax36410/n/nb43b98a7a3ba