多様性を認めるには、多様性を認めるわけにはいかない
昭和の終わりである63年生まれの私は、ゆとり教育の始まりの世代だと思います。私が小学生の時に「ゆとり」の時間ができ、土曜日が短縮授業になりました。
だから、私より年下はゆとり世代以降で、私より年上はゆとり教育以前になるわけです。ちょうど狭間で生まれた私から見える景色は、随分とわかりやすいものです。後ろにはゆとり教育世代の後輩が居て、前にはゆとり教育ではない先輩がいるわけですから。
私は縦社会が嫌いです。権威というものを強く嫌っているからです。私は誰が言っているかに関係なく、発言内容そのものだけを評価するべきだと思っていますし、誰が歌っているかに関係なく歌を評価するべきだと思っています。そんな私から見れば、年上の人というのは全体的にやはり権威というものを重視しているように感じます。それが縦社会そのものですからね。
それに、権威を重視するということは論理を軽視することに類似しています。論理の世界では、「あの人が言ったから」「あの人が歌っているから」はその正しさを評価する根拠として機能していないからです。逆に権威を重視しないということは、論理的であると同時により本質的であり、誤魔化しの効かない正当性が必要な分野だと思うわけです。そうなると、権威を重視していない人間の方が賢いように思うわけです。
だから、私は年下の方が賢いと思うことが多いです。本来であれば、年下の方が賢いというのは自分のプライド的にも認めにくいものではあると思いますが、認めにくいものでさえ論理さえ正しければ認めるのがまさに件の権威を無視するということでもありますね。
そんな私から見れば、最近の世間の傾向というのは、小さい頃から思っていた私の思想にすごく近いと思うことが多いです。例えばタイトルにあるような多様性を認めるだとか、LGBTだとか、外見を馬鹿にしないだとか。
小学生の時、アトピーがひどいクラスメイトが二人いました。当時だからかわかりませんが、どうしてもそのアトピーに塗る薬の匂いがきついようなのです(私は鼻が鈍いのでわかりませんでしたがw )。クラスメイト達は馬鹿にしていました。陰口という感じで、いじめというほどではありませんでしたが、まあ子供ならやりそうな「あいつ臭くね?」みたいなやつです。
私は心が痛みました。それに同時にこう思いました。私がアトピーなら同じように馬鹿にされたのだろうか、と。
アトピーになりなくてなったわけではないのに。ランダム要素でそうなっただけなのに、言ってしまえば醜くなってしまった。それだけで発言権を失ってしまったり、馬鹿にされたりする。なら、今私がある程度認められているのは何故なのか。外見がまだ良かったからなのか、それとも私の人間性なのか。もし私が何かの病気や怪我で醜くなったら、同じように認められなくなるのか。そう考えるとひどく悲しくなりました。
小学生の頃からそんなことを考えている私にとって、今の時代の風潮というのは波長が合っているように感じるわけです。もしかしたら単純に、私などのゆとり世代以降が中年になってきたので世論が変わってきたのかもしれませんね。
しかし、問題があります。それは、多様性を認めるなら、多様性を認めないという人間も認めなくてはならないという矛盾を孕んでいるということです。これは床屋のパラドックスだとか、自己言及のパラドックスに相当するものでしょう。つまり、「この文は偽である」という一文と同じように、それを認めるなら認めないことも認めなければならないという矛盾です。
これは結局、「縦社会が正しい!」と言っている人間と本質的には変わらないのかもしれません。「多様性を認めることこそ正しい!」と言っているわけですから。所詮、正義の反対は別の正義でしかなく、何かを認めるには何かを認めない必要がある。我々は存在した時点で、誰かを否定しないようにしていながら、何かを否定しながら生きてる。つまり、何かを肯定するということすら何かを否定することと同義なのではないでしょうか。
だから私は、あまり肯定ばかりすることを事を良しとしていません。というか、否定することも肯定することも同義だと思っているので、肯定するのと同じように否定していきます。多様性を認めていくとこんな考え方になるなんて、なんだか皮肉ですよね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?