【人生ノート 245ページ】 神さまは、よりよい道にゆくことをお喜びになるのであります。
近代化された歩みよい道
さて、道を歩くには、同伴者(つれ)というものがあるほうが面白くゆける。なにかワイワイ笑いながら歩いているうちに、一里、二里は行ってしまう。しかしまた、気の合わない者とゆくと、一人ゆくより苦しい。また行く道でも、楽な道と、ちょっとは楽なようで変な道もあるし、変な道と思っても、よい近道もある。それは事情に精通者でないとわからない。むかしは良かったが、いまは橋が落ちており、いばらが生えている道もあります。狭いようでも先になると、大きな自動車が通うているような道もある。
道は教であります。凡夫は道を通らねば行けぬのであります。それを選ぶということについても、ほんとうに信仰をもとめる心があれば、もう少し考えねばならぬ。非常によい道へゆけば、知らぬ間に、他人の十年かかるのが一年で行けるのであります。自分でわからん時は、信用のできる人、この人はと思う人にしたがって、なるほどと思って従いて行ったらゆけるのであります。それを、あんまり自分で案じて、ああじゃろうか、こうじゃろうかと思っているだけでは、いつまでたってもゆけん。
それから、交通でも昔は歩いた。駕であったり、また人力車であったり馬であったりした。ところが、いまはだんだん汽車ができ、汽船ができ、飛行機ができ、昔よりは今のもののほうが、すべて便利であり良いのであります。光の方からいっても、むかしは松明であり、あんどんであり、ランプでありましたが、いまは電気であります。昔よりは今の物のほうがみな良い。
心のほうでも、昔の人よりいまの人のほうが開けている。深みがなくても世界的である。また小学校の生徒の知っている知識を、昔の大学生は知らなかった。すべて今の人は進んでいるのであります。ある意味では、一部に堕落していることもあろう。しかしながら、たしかに今の方が進んでいる。
宗教でもそうであります。昔のままの宗教へはいれというのは、いまの人間に人力車で、駕で、馬で行けというているようなものであります。それぞれ神や仏の教を説いているのでありますが、いまの人を運ぶには、コンクリートで舗装道路をつくり、飛行機で飛ばした方がよろしいのであります。われわれの道は、精神は古いものであるが、それを今の人に合うようにし、世界的にした。それで非常にわかりやすいのであります。
なにか、宗教をかえるとか、こっちへ行っていて、あっちへ行くのは悪いというようなことを考える人がありますが、幼稚園へ行っていたから、いつまでも幼稚園へ行かねばならんというような法はない。幼稚園で行き詰ったら小学校へゆく。また小学校へはいったから、いつまでも小学校におらねばならんというような、そんなことはない。
神さまは、よりよい道にゆくことをお喜びになるのであります。
出典『信仰叢話』出口日出麿著