【人生ノート274ページ 】ちょっとの誤解や行き違いからして、この世がこんなに乱れて来ているまでである。
感情と理解
他人の欠点でも、これを好意をもって忠告矯正してやるようにするのと、最初から悪意に、嘲弄的に忠告するのとでは、その結果に大変な差異を来たすものである。なるほど、今の社会のどこを見ても無茶苦茶だらけで、全体、何をやっているのやらと思われるようなことが多い。しかし、これを攻撃的の態度で単に立腹してみたところで、相手に、かえって反感をおこさしめるだけのことである。上位、上官の人のなしていることといえども、正義真理の上から見て、これはと思うようなこともないとは限らぬ。けれども、われわれあくまでもこれを善意に解して、ちょっとしたことで人の揚げ足をとって快哉を叫ぶような醜い小手先の業はやめねばならぬ。十分人の立場に同情して、なるべく人の非は蔽うてやるようにするのが人情である。
この世に心からの悪人というものはあるものではない。
人の性はみな善である。ただ、ちょっとの誤解や行き違いからして、この世がこんなに乱れて来ているまでである。
世の中のことはすべて、親が子を思い、妻が夫をかばうように、たがいに愛情というものをもって解決して行くのでなくては、つねに角が立つばかりで、決してうまく行くものではない。いまの半物識りは、あまりに人間の感情方面を無視して、単に理性一方ですべてをきめようとするから、かえって世の中がぎこちなく、潤いがなくなってしまうのである。いかなる人といえども、感情を無視して生活することはできるものではない。理論の上では、いかほど正であり善であっても、感情の行きがかり上では、かえって不正にくみし、悪に党するという場合も少ないのである。「人生意気に感ず、功名まあ誰か論ぜん」といったのは、ここのことである。
将来、どんな原理が発見され、いかなる新説が発表されたにしても、人間相互のあいだの魂と魂とがいがみ合っている間は、決して社会は幸福になるものではない。
ちなみに、学問や知識というものは、決して人生そのものではない。目に一丁字がなくても立派に
生きてゆけるけれども、魂がゆがんでいては人が相手にしてくれない。
『信仰雑話』出口日出麿著 感情と理解(昭和三、四、八)