【人生ノート 281】 人生を根本的に幸福にするものは、金でも科学でも薬でもありません。ただ心そのものであります。
心の鏡
人の心はもっとも巧妙なる電磁器でありまして、自動的には、自己の意念はただちに独特のある種の電波となって四方へひろがってゆき、ことに、わがめざす相手へはもっとも強くひびいてゆくのであり、受動的には、他の意念はそれ相応の電波となって自己にこたえてくるのであります。
昔から禅家などで以心伝心ということを申しますが、われわれからいえば平凡な事実でありまして、このことあるがゆえに人は神と通ずることができ、他と応ずることができるのであります。
俗に虫が知らすと申しまして、親しい間柄の人に何か急な事変がおこった場合などに、なんとなく胸さわぎがしたり、フトその人のことを思いだして心配でたまらなかったりする経験は、たれにでもよくおありのことと思います。
形の上でも、ちょうどした時間に自分の羽織のひもが解けたり、切れるはずでない下駄の鼻緒が切れたり、夜だったら、なにか音を聞いたり夢を見たりすることも往々あることであります。
また、うわさをすれば影と申しまして、その人のことを言い出していると、ヒョックリ当人がやって来ることはしばしばあることです。これはその人の思念が、肉体より先に電波となってその場に顕現していたので、その電波をすなおに受けた座の誰かが、肉体ではフト思い出したままにその人のことをしゃべったのであります。
前の例における、形の上にも紐がとけたり、緒が切れたりするなどというのは、単なる以心伝心の作用とのみ解することのできぬ場合もありまして、これらは多くはその人を庇護している第三者の精霊のなす業であります。
人を呪い殺すなどということも、たしかにあることでして、憎悪にもゆるときの電波は強烈なる毒害作用をもっているのは当然であります。かかる特殊な場合にのみ心は相映ずるのではなく、
平素茶飯事の間にでも、思うところ必ず内的には相通じているのであります。実に心というものは恐ろしいものであります。
立ち向ふ人のこころは鏡なりおのが姿をうつしてや見む
という道歌がありますが、実際、人間の心は鏡のようなもので、虚心平気の時には一切のことが映ってくるのであります。いまこの人はどんなことを思っているかというぐらいことは、誰でも少し自己をむなしゅうすることさえできたら、わけなく分かることなのであります。霊界の人は上界の者ほど、ただ単に相手の目を見るだけで、すぐに先方の現在の思想全部を読んでしまうのであります。否、目の前にあい向かわなくても、どこにおっても自由自在に自分の相手(そのとき自分について思念している人)の心は、ちょっと注意すれば分かることなのです。ただし、かくすることによって、より下界の者には、より以上の者の意志は樹分にわからぬのが神律であります。
いまこの人はどう思っているかを、言語動作によらなければ理解することができないというのは、
外的になりきっている現界の凡人同士の間のことで、これがために我々は、ともすれば外的なものに騙されやすく、とんでもない馬鹿な目にあったり、またなんでもないことを誤解し合ったりりしているのであります。
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昔から同気相求むとか、類をもって集まるとか申しまして、心に毒気をいだけば必ず邪気にこれに応じてきたり、心清明にして誠なれば、かならず神気ここにあつまるのは理の当然であります。もし心しばしば毒気をいだき、邪気したがってしばしば、あるいは久しく来たりとどまる時は、その人はついに邪鬼と化すにいたるべく、これと反対に、心つねに清明誠真にして神気つねに我に留まるときは、やがてその人は神人となるにいたるのは明瞭な事実であります。
元来人の心性は宇宙の太霊より発しているもので、この世における賢愚は別として、その本性なるものは誰でもみな同様なのであります。ですから、いかなる悪人といえども、一朝悔悟して
心の向きを変え、おこないをあらためる時においては、遠からずその人は神の国に居ることができるのであります。
心中邪念を生ずれば、その頭上に一種の黒気立ちあらわれ、邪気はこれを望んで自然にそこに引きつけられるのであり、心中喜悦の情あれば、その身辺一種の光輝あり、陽気善霊は自然にそこに集まり来たるのであります。
幼児は心性本有のままで、ほとんど邪気がないからして、悪魔が魅入るというようなすきが少しもないのであります。ところが、この幼児も次第に成長して種々の欲望がきざしかけるというと、心情がみだれがちで邪念生じやすく、いろいろの邪霊陰気におそわれる機会が多くなるのであります。
鬼を出そうと仏を生もうと、それは己が心の持ち方一つなのでして、本来この世にきまった敵というものもなければ、また味方というものもあるのではなく、のが心一つで敵も味方もつくりだしているのであります。あいつは憎いと始終思っておれば、したがってその心は、相手が意識するとせぬとにかかわらず
通ぜずにはおらぬので、本質的にますます両人に溝渠を生じ、かくて両人は、いわゆる仇敵の間柄となってゆくのであります。
心の働きというものは、かように怖るべきものでありますから、われわれはあくまでも心をおだやかに愉快に持って、二六時中、周囲の人々へ美しいはなやかな電波のオーケストラを放送して、人生をより幸福にし合うように極力つとめねばならぬのであります。
人生はどこまでも共同生活であって、各自の胸中の悲喜苦楽は、ただちに確実にその周囲の人々の悲喜となり苦楽となるのであります。ですから我々は、かりにも、人を憎むがために憎むというようなことがあってはならぬのであります。昔から人間相互の憎悪と復讐の念がつもりつもって、この世がこんなに住みにくく呼吸苦しいのであります。
人生を根本的に幸福にするものは、金でも科学でも薬でもありません。ただ心そのものであります。
世のおろかなる人たちは僅かなる物質のために、貴重なる人の魂をきずつけ、しいたげることをなんとも思っていないようです。
魂は永遠であり、物質は瞬間的のものです。
魂よりも物質を重んずるという世の中に、幸福や平和があろうはずがありません。中国の人でも「二人心を同じゅうすれば、その利(するど)きこと金を断つべし」といっていますが、全くそのとおりで、世に魂の融和ほど力づよくうれしいものはありません。また「人生意気に感ず、功名また誰か論ぜん」とか申しまして、苦楽ともに相照らしておる人たちの間ほど、うるわしく羨ましいものはありません。「真に魂の一個を得ることは、あきらかに一世界を得ることなり」と聖言にも録されてあります。
(大正一五、七、一)
『信仰雑話』出口日出麿著