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【人生ノート284】各自が自分を主張していては平和がこない

全体のための個体


それから、一切のものが良くなりたいという希望をもっているが、最初のあいだは、他人を押しのけてでも、自分だけが良くなりたいという自己中心の求め方、考え方をするものであります。嬰児(あかご)は自分の腹のへっている時とか、自分に必要なことがある時とかは、火がついたように泣きだす。
父親や母親や、あるいは周囲の人々の迷惑なんかを少しも考えずに、ただ自分の欲求を充たすためにのみ一生懸命に泣きだすのであります。それが、だんだん大きくなり、年をとるにしたがって、今度は周囲を見だすようになる。そうなると、自分はいま腹がへっていても、この食物は自分のものではないからと思って、我慢するようになる。それがさらに大きくなると、腹がへれば、自分で働いて、それを得なければならないことに気がつきだす。

自分一個を中心として良くなりたいという考え方から、この世の中は、それでは立ってゆかないという気持ちになり、それがやがては、大局の一部分としての自分であるから、自分が良くなるには全体がよくならなければならない、というふうに考え方が変わってくるのであります。

そうなると、各自が自分を主張していては平和がこないから、平和を来たらすためには、小異をすてて大同につき統制ある社会を造り上げようという気になり、また全体のためには一細胞、一つの肉体は犠牲にせなければならない時もあることに、気がつくようになるのであります。

つまり、自分を主としての、より良くなりたいという気持ちから、全体を主としての、より良くなりたいという希望にまで変わらなければならないのであります。


全体に奉仕する心構え


すくなくとも、右のように考える人であるならば、だんだんその人の生活ぶりが変わってくるのであるが、その途中には、非常な悩みがあったり、苦しみがあったりする。というのは、人間は万物の霊長だとかなんとか申してはいるが、実は利己的なものであって、動物より少しましなくらいなものにすぎないからであります。したがって、やはり動物的なものが半分は残っているからであります。

自分自身を静かに省みるとき、それは、そう偉いものでないことに気がつくはずであります。また動物的な部分が、誰にでもあると見ていいのであります。しかし、理論の上から、実際の上から、これではいけないというので、だんだん悟ってゆき、修行してゆき、導かれていって心がかわってゆく。つまり、一個の利害関係の生活から、全体の利害関係の生活へはいってくるものである。で、全体の一細胞として、全体のために奉仕するという生活でなければ、ほんとうのものでないということが、どうしてもハッキリわからねば、人間としての生活に意義がないし、ほんとうの生き方をしているのではなく、がむしゃらに道を歩いていることになるのであります。5

指一本でもが、自分としてわがままを振る舞うときは、全体の調和を破壊することになる。が、からだ全体のために指一本が働き、取るべき時にとり、離すべきに離すーーこれは、全体統制をうけてやることになり、指は非常に意義ある、ほんとうの生活をしているということになるのであります。

しかし、全体のためにのみを計って自分を空しゅうし、腹がへっても飯を食わなかったりあるいは自分を始終犠牲にばかりしていたらよいかというに、そうばかりはゆかない。全体の一部分としての自分のためも、多少は計らねばならぬ。ただ、考えのおきどころに相違があるだけであります。

『信仰叢話』出口日出麿著


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