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【人生ノート 241ページ】最初の心のきめかたが第一であります。自分でしっかり考えて、よく定めねばならぬ。

今の一文より先の百文

すべて、最初に確固たる決心があるというと、たとえ失敗しても、それが自分の教訓になる。もうああいうことはすまいと考えるから、後になれば、失敗がその人の財産になる。そうでないと、しっかり省みる心もない。自分で自分を責める心もなく、いつもおなじ失敗をしている。癖がなおらん。癖がなおらんというと、世の中から受け入れられず、また神さまから本当のお恵みを受けることもできん。自分で自分を引きずって行くというような心意気がないと、本当の信仰へもはいれず、本当のお蔭もないものです。人間は万物の霊長であるだけに、このことが良くわかっており、また行く道の目標がきまっておらんと、毎日フラフラとしていて今日もすみ明日もすむ、というようにして短い一生はすんでしまう。霊界の存在、神さまの存在が分かっておらんと、あわてるだけで、霊界へ行っても、悪い下の世界でウヤウヤしておらねばならん。現界でそういうことが早くわかっており、ご神徳をいただいており、体験を得ていると、たとえ若くして死んでも普通の人よりはよいところへ行き、よい道をもとめて進んで行くことができる。

最初の心のきめかたが第一であります。

要するに、最初の心のきめかたが第一であります。心は自分にあるのですから、自分でしっかり考えて、よく定めねばならぬ。世には簡単に金がもうけたいとか、簡単に出世がして見たいというようなことだけを目標にしている者もある。また、なんという目標もなしにフラフラしている者もある。また少々悪いことをしても、出世さえしたらよいというような目標をもっている者もある。

しかし、いやしくも本当の信仰を求めるような者なれば、いま損をしても先で得をしたいというような目標を持つべきであります。いま損をして、先で得をするということは、非常に大事でありまして、普通、信仰のない人は、先の百文よりも今の一文というようなことを考えているから、ちょっとしたことに嘆いており、あがいているのであります。いま少々苦しんでも、先になって自分に返ってくる、また自分のものになるということが、しっかり分かっておらないと本当の信仰はできん。信仰というものは、今だけのものではない。永遠への建設であります。先のことを考えた今の行いでなければならん。いまの世の中では、そういう人はかえって変人のようにいわれ、迷信のようにいわれるものです。が、そういう行いで十年もつづけておれば、かならず変わって来る。変わらないのは本当の信仰を持っていない、本当の行いをしていない、表面だけのものであるからであります。

目標だけきめたらよいものではない

自分でもしばらく経てば、はじめの自分より変わったな、ということが分かってくる。それが三年もたてば、肉体の方にも目に見えて変わってくるものであります。しかし目標をきめたからといって、それへ行くあいだに道がある。向こうのあの山ときめたからといって、まっすぐにさえ向かって行けばよいかというと、そうでない。近いと思っていると大きな川があったり、峠があったりして、自分が思うように一足飛びに行けるものではない。これは信仰とか人生の目標とか、大きなことのみではない。どんな目的を立てても、千辛万苦してはじめて少しずつ行けるものであります。目標だけきめたらよいものではないのであります。目標をきめると同時に、いかにして行けるかというということを苦心してゆかねばならん。よい所へ行くのには、それだけ苦心せねばならん。苦労せねば身につくものではない。お金でも、親の財産をゆずってもらっただけでは有難さがわからん。自分で苦労して儲けたものは、ありがたさがわかるから、むだづかいはせん。

病気でも、自分でしたものは、他人の病気のことがよくわかる。女の人でも、自分で子供を産んだことのある人は、また人のお産のことがよくわかる。

出世するとか、金をもうけるとかいうことよりも、も一つすすんだ永遠のことを考えてゆかねばならぬ。信仰は年が寄ってから、また病気の時にやったらよいと考えるのは間違いである。信仰は永遠のものであるから、病気とかいうことは付けたりである。ちっとあわてず騒がず、その日が送れるようになって、はじめて信仰である。

隣村へ行くのにも道がわからず、どうしても行かねばならんというと人にたずねる。またいかなかったら他の人にたずねる。それでもわからなかったら交番へでも行ってたずねる。ただ杖が倒れた方へ行ったらよいというふうに、また人に連れて行ってもらったら良いというようなことで行くと、しまいに、どっちへ行ってよいかわからんようになる。

ちょっとした損も、永遠の非常な得である

信仰に対して、心と体を働かすことが不足していてはだめなのであります。いまの人は、何か理屈ばかりいうて歩くことをしない。つまりちょっとした損も、永遠の非常な得であることに気がつかない。その損が何千万円よりも永遠に得になるのであるが、それを今の人は知らない。何か、急場になったら求めるというようなことは非常にわるい。ほんとうに求めるのは、早くから、また、相当に準備し、苦労してゆかねばならんのであります。

『信仰叢話』今の一文より先の一文 出口日出麿著



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