【人生ノート 196ページ】 心をゆたかに晴れやかに、温かくもつようにし、他に対して好感を与えるように心がけるべきである。
なんとなくそういう気持ちになる……ということが人間を動かしている実際だ。人はいろいろと理屈をいうが、理屈はどうにでも都合しだいにいえる。理屈を主としてはいけない。
すべては感情から発しているのだ。理屈ではない。
なんとなくそうした気持ちにさせるものは神だ。神は理屈で、または法律で人を動かしているのではない。
赤子は理屈はなにも知らないが、しかし両親をなつかしむ。理屈から生きているのでも、食べているのでも、死んでいくのでもけっしてない。ただ、なんとなく、そうした気持ちになるからそうするまでである。
人間の自由になる範囲は、人間の理屈で律することができるが、人間の自由にならない範囲はそうはいかない。
人は気持ちによって、神のみ心を知るのみである。
人間の気持ちは実によく変わるものである。雨がちょっと降りつづけば、この世がもうつぶれてしまうのではないかとまで心配したり、それが、からりと晴れてしまえば、まえの心配はもうすっかり忘れてしまって、永久に天空海闊、人生は愉快なものだという気分になってしまう。
少しの病患にでも、自分はもう駄目だと悲観したり、ちょっと健康になると、病気なんてなる奴の気がしれないというふうにはしゃぐものである。
人の気持ちの変化は、実際、たよりないほどくるくると極端から極端へといくものである。
だから、この社会の状態さえ少しよくなっていきさえすれば、思ったよりも人々は善人ばかりなのである。すべては境遇に支配されているのである。これを脱することは、いかなる達人といっても至難のことであろう。ただ、その程度の問題だけの話である。
この世はまったく想念の世界である。
想念すなわち形相である。想念は形相をつくり、形相は想念を呼ぶ。
「善を思えば善となり、悪を思えば悪となる」のであり、_朱にまじわれば赤くなる_のである。
だからわれわれは、つとめて心をゆたかに晴れやかに、温かくもつようにし、たとえ不愉快なときでも、形においてはつとめて美しく晴れやかに、他に対して好感を与えるように心がけるべきである。
自分の愉快はなるべく他人に分かつようにし、不愉快はなるべく他に移さないようにと心がけるのがよいことである。
ただし、全然、心を外にあらわさないということはできないことであって、ただ、なるべく不愉快は他にうつしたくないものだというだけである。
笑いも悲しみも、広さも狭さも、美しさも醜さも、原形はすべて心の世界にあるのであって、心のせまい人の前にいれば、自分もまた狭い世界に押し入れられるのであり、心ゆたかな人の傍にいれば、自分もまた豊かな世界に居住することになるのである。怒っている人とともにおれば、自分もまた怒りをおぼえ、笑っている人と隣りあわせば、自分もまた笑うのである。
いろいろと気持ちが変わっておもしろい。自分で自分をじっと見つめていると、実におもしろい。たまらないほど重苦しい気持ちのときも、そう長くはつづかない。たいてい、一昼夜たらずで、また次の気持ちにうつる。自分が重苦しいときには、何を見ても重苦しい。自分が小さく悲しく口惜しいときには、あたりのいっさいが小さく悲しく口惜しい。自分の内界だけの世界だということをしみじみと感じる。
思念そのままが世界である。
『生きがいの探求』、出口日出麿著